比留間久夫 HP

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見者の手紙(ランボー)

ランボーというと、
思い浮かぶのは、有名なこのフレーズです。

   見つけたぞ。
   何を?
   永遠を。
   それは海と番(つが)る太陽だ。

いろいろな訳があります。
「と番る」という箇所を、「に溶ける」と訳してる人もいます。
溶けて一体となる、といったイメージでしょうか。
「番る」というと、プリミティブな混沌としたイメージがします。

ヴェルレーヌとの壮絶な痴話喧嘩も有名です。

   選ばれてあることの
   恍惚と不安と 二つ我にあり

と、書いた人です。
太宰治の『葉』のエピグラフとしても、有名です。

ランボーが詩を発表したのは、10代後半。
その後は、冒険家、旅行家、探検家、商人。
癌で片脚を失い、37歳で死んだ。

ネットで調べたら、
ディカプリオ主演で、映画になってるそうですね。
『太陽と月に背いて』
なんか、ヤバいシーンもあるとか・・・


前置きが長くなりました。
ここで、採りあげるのは、『見者の手紙』です。
これは、ある人に宛てた手紙で、新しい詩の意想を説いたものです。
そのまま、書き移します。


詩人たらんとする者の第一歩は、
全面的に自分自身を知るにある。
彼は自らの霊魂を探(たず)ね、調べ、試み、知らなければならない。
ひとたび、これを知るや、次にこれを錬磨しなければならない。
それは一見、容易のように思われる。
どんな頭脳にも自然の発育はあるのだし、
多くのエゴイストどもまでが、自ら詩人なりと僭称していたり、
また多くの者どもが、自分らの知的生育を、自力に帰したりしているほどなので。
  僕が言うのは、悪魔的な霊魂を創りあげることなのだ。
  あきれて驚く凡俗者流は尻目にかけて!
  例えば、自分の顔面に多数の疣(いぼ)を移植して、
  これをせっせと培養している一人の人間を君は想像するがよろしい。
  僕は言うのだ、見者たれと、自らを見者となせと。

詩人が見者となるがためには、
自己の一切の官能の、長期間の、深刻な、
そして、理論的な錯乱によらなければならない。
あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、
彼は自らの内に探求し、自らの内に一切の毒を味わい尽くして、
その精華のみを保有しなければならない。
深い信念と超人的努力とをもって、
初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、
初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、
偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、
  そして絶大な知者になる!
  なぜなら、彼は未知に到達するからだ!
  すでに自らの霊魂の錬磨を完了したこととで、
  誰よりも豊富な存在になっているからだ。

すなわち彼は、未知に達したわけだ。
だから、万一、彼が狂うて、
自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、
すくなくとも彼はすでに一度それを見たのだ!
彼が見た夥しい前代未聞の事物の内に没し去って、
彼が一身を終わったとしても、嘆くにはあたらない。
なぜかというに、他の厭うべき努力者どもが、続いて現れるはずだから。
彼らが、先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、
詩を進めるから!


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