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HP2000(仮題)28 ~ 33



     28


 2000年の幕が開いた。
 バンビさんは新年早々彼のところに外泊中。
 京都から大晦日の夜に戻ってきて、元旦の夜までは一緒にゴロゴロしてたけど、夜遅くヨコヤマという男の人から電話がかかってきて、大急ぎでオメカシして、いそいそと出かけた。それっきり、3日の夜になっても帰ってこない。
 着替えはどうしてるんだろう。家にずっと籠ってゴロゴロしてるのだろうか?
 でも、毎日、一度は電話がかかってくる。今日は帰らない。明日には帰るかな。今日も帰らない。
 新年早々、花魁みたいなことをしてるのかもしれない。でも、たぶん仕事ではなく、恋愛だろう。出かけるときの様子や電話の声を聞けば、甘い感じなのがよくわかる。最近できた彼氏さんなのかな。
 わたしは花魁ショーのことを考えている。時間をかけたほうが良いものができる。あーでもないこーでもないと考えていた一見無駄でバラバラなことが、ある日、魔法のようにつながる瞬間がある。もちろん、それは錯覚のときも多い。でも、それを繰り返していけば、次第に形のあるものができあがっていく。
 まず、衣裳はどうしよう? 軽量化を図り、動きやすいものにしたほうがいい・・・でも、その前にショーのコンセプトを決めなければならない。それが先だ。
 中心にはやはり、バンビさんの凄味を据えたい。凄味ーーつまり強い存在感があれば、あとは勝手についてくる。重厚感も出したい。定番の艶めかしさ、煌びやかな雰囲気も必要だ。狂気はどうだろう? ホラーのほうに傾斜してしまうか。
 映像や装置をどう使うか? それは会場の設備を見てみないとわからないけど、背後に横に長いスクリーンを置いて、映像を流したい。その前でバンビさんが舞い踊るようなイメージだ。
 小物を効果的に使って、身に纏っているものを脱いでゆくのもいいだろう。脱いでゆくと裸になるのではなく、違う得体の知れないものに変貌していくのも面白いかもしれない。背後のスクリーンを効果的に使いたい。
 露出は肩や背中や太腿にとどめておいて、胸を露わにするとしたら、片胸で終わりのほうでいいだろう。エロチシズムは抑制したほうが発露される。そして最後まで、肝の座った毅然とした表情を貫く。表情を変化させるにしても、それを中心に回るようにする。そこだけ押さえておけば、あとはバンビさん自体の魅力が自然にパフォーマンスするだろう。
 わたしはそれら頭の中、目蓋の裏に浮かんだイメージを手に持ったスケッチブックにさっさっさっと移し取っていく。絵コンテを描いてゆく。




      29



 胸の裏側を針で刺されたような痛みが走る。
 大きく腹式呼吸を10回。無心になる。そう、心を無くすのだ。
 彼が3日目、海にドライブに行かないかとわたしを誘った。嬉しかった。だって彼がちゃんとわたしを女性扱いしてくれるんだもの。男の人の車に乗って、海へドライブするなんて久しぶりだなぁと思った・・・そういえば、昔、よくこんなふうにドライブに行ったっけ。電車に乗るとジロジロ見られていやな気持ちになるから・・・誰かが胸の中を走り回っている。陽の光を受けてキラキラ輝く青い海を見ながら、ブルーな気分に沈んでいくのもシャレにならないので、わたしはこっそりハイになるクスリを服んだ。それからまた静かに腹式呼吸を10回。ドアは開いてしまっている。車内に鳴っている音楽に合わせて、助手席で踊ってふざけた。だいじょうぶと思った。わたしはいま愛されている。
 途中、食事中にワインも飲んだので、時間の記憶はなおさらブツギレている。車を停めて、砂浜に下りた。綺麗な貝柄を探しながら、打ち寄せる波から逃げた。その先には彼がいて、わたしは抱きついた。空から映画を観ているようだった。でも、鮮明に残っていることもある。東京へ戻るときの首都高の夜景だ。窓の外を凄い速度で赤や青や金色の光が虹のように景色をにじませながら飛んでいく。どこに連れてってくれるのだろう。
 ホテルの部屋に戻ると、ぐったり疲れていて、ベッドに横になった。しばらく寝てたような気がする。彼はパソコンに向かって何かしていた。たぶん、仕事だろう。
 夜更けに彼がベッドに入ってきて、求めてきたので、応じた。うつらうつらしていた。からだは水をパンパンに吸ったスポンジのように重かったが、甘やかな気分がわたしを動かしていた。彼の背中に手を回し、キスに舌を絡めた。・・・たぶん、バッドトリップしてたんだと思う。わたしが相手をしてたのは彼ではなかった気がする。彼がわたしの中に入ってくる。未来と現在が喘ぎに掻き消されるように遠のいていき、過ぎ去った時間や夢の景色の中に昇りつめていくわたしがいた。壊れたサイレンのように誰かが泣いている。それが自分の声だと気づくのにすこし時間がかかった。首から鍵をぶら下げている。ドアは開け放されている。忘れたものたちが部屋から出てきて、わたしを取り囲んでいる。わたしをじっと見ている。男に愛されているわたしをじっと見ている。わたしはこんなふうに女性として愛されたかったんだと思った。




       30


 ホテルに着くと、バンビさんはロビーのラウンジにいた。
 出かけたときとは違うライトブルーの太編のセーター姿で、サングラスとマスクをつけている。そばにブランドロゴが書かれた大きな紙袋が二つある。
 朝の8時過ぎにヨコヤマさんから電話がかかってきた。バンビさんが体調を崩したので迎えに来てほしい。加奈子はタクシーで指定されたホテルへ向かった。
 「だいじょうぶですか?」
 加奈子はバンビの前に膝をついて、顔を覗きこんだ。
 「うん、だいじょうぶ。だいぶ落ち着いた。1人でも帰れるって言ったんだけど、彼が心配して聞かないの。それで加奈子を呼んでもらったの」
 「歩けますか?」
 「うん、歩ける。荷物だけ持って」

 マンションに戻ると、お風呂に入ると言うので、わたしの部屋で服を脱がせた。すごく汗をかいていたけど、からだに痣やケガはなかった。施設のときの習慣で、ついつい確認してしまう。お風呂は迎えに行く前にセットしておいた。とりあえず、バスタブに入ってもらい、顔だけ洗い場に突き出す形で化粧を落とす。そのまま髪も洗う。洗い場に出てもらい、からだも洗う。バンビさんは為されるがままにしている。魂が抜けちゃってるみたいだ。
 「ありがとう。あと細かいところは自分でやるわ」
 そう言うので、加奈子はバスルームを出る。バスタオルを用意して、外で待つ。
 しばらくすると出てきたので、バスタオルでくるむ。胸のところで1枚を止めて、もう1枚は手に持って、LDKへ行く。
 ドレッサーの椅子に座らせて、髪をバスタオルで拭き、ドライヤーで乾かす。バンビさんはその間、にじみ出る汗を細目にパフで吸い取り、化粧水やクリームで肌のケアをしていく。わたしはエアコンのリモコンを取り、一旦、消した。女性ホルモンの影響で体温バランスが崩れるときがあるみたいだ。でも、顔色はそんなに悪くない。
 いつも着ているネグリジェを頭からかぶせて、着させる。バンビさんがそのまま椅子に座って鏡を見ているので、コップに水を用意に台所へ行く。
 「だいじょうぶですか?」と水を置き、もう一度、聞く。
 「うん・・・だいじょうぶ。たまに激しくイカレることがあるのよ、人工人間だから。でも、アルコールとクスリが抜ければ、マシになると思うわ。・・・もう寝るわ」
 バンビさんは立ち上がった。そのまま自分の部屋へ行こうとするので、付き添う。掛布団をめくって、ベッドに寝かせる。
 「ありがとう。おやすみ。・・・もう心配しなくてだいじょうぶよ」
 バンビさんは布団にもぐりこんだ。

 バンビさんが起きてきたのは夜の10時過ぎだった。
 12時間以上、眠っていたことになる。でも、起きてきたので、一安心した。途中、何度か息をしているか心配になって、そーっと確かめに行った。
 「何か軽く食べますか?」
 すこし落ち着いたのを見計らって、聞いた。ドレッサーに座り、顔をチェックしている。でも、ボーっとしている。
 「・・・お茶漬けか何か、作れる?」
 「はい、用意します。鮭でいいですか?」
 「うん」
 バンビさんは食卓に来て、出したお茶漬けをゆっくり食べはじめた。食欲は普通にあるみたいだ。
 「さっぱりしてて、美味しい。ずっとコッテリしたものばっかだったから」
 「ヨコヤマさんから7時ごろ、電話がありました」
 「・・・何か言ってた?」
 「心配してました」
 「そう・・・あとで電話をかけとく」
 「病院とか行きます? 明日あたりからやってるところもあると思いますけど」
 「行かない、病気じゃないし・・・ちょっと年末年始張り切り過ぎて疲れがたまったみたい。あと、女ホルの錠剤を持っていくのを忘れちゃったのよ」
 女ホルとは女性ホルモンのことだ。毎日、服んでいる。電話で言ってくれれば、持っていってあげたのに。
 「2、3日もゆっくり休めば、もとに戻ると思う・・・いままで、そうだったから」
 「・・・わかりました。何かあったら言ってください」
 「うん」
 「袋に入ってた服はどうしますか? クリーニングに出しときますか?」
 「汚れてた?」
 「そうでもないです。皺が寄ってましたけど、アイロンで対応できるレベルです」
 「じゃ、そうしといて。ビニールに入れといた下着類はそのままお風呂の洗い場の隅でも置いといて。次に入ったときに洗うから」
 「洗っておきましょうか?」
 「いい。それは自分でやる。捨てちゃうかもしれないし」
 「わかりました」
 「ほかに何か、報告とかある?・・・留守中、だいじょうぶだった?」
 「はい。特に何にもです」
 「・・・加奈子は何してたの? ごめんね、お正月から一人にさせちゃって」
 「だいじょうぶです。部屋の整理をしたり、ショーのことを考えてました」
 「ああ、ショーね・・・やんないとね。・・・じゃ、またすこし横になる。加奈子、もう寝てもいいわよ」
 時計を見ると、11時過ぎだった。
 「はい。もうすこし起きてるので、何かあったら、呼んでください」
 食卓を片付けて、台所に立った。洗いものをし、冷蔵庫の中を整理し、コンロ周りを掃除し、バンビさんの様子をうかがった。
 ソファに寝転んだまま、動かない。どうやらまた眠ってしまったようだ。
 エアコンはどうしようか? 除湿器はつけてある。





      31


 バンビさんは今日から仕事始めだ。
 昨日まる一日、家で静養して、体調もすこし良くなったみたいだ。急に汗が噴き出る、ほてりも治まった。もう一日、休んだらどうですかと言ってみたけど、店に出てたほうが気が紛れるし、お年玉も貰えるから。年末と並んで年始も稼ぎどきらしい。
 ヨコヤマさんから、あれから二度電話があり、二度目のとき、出ると合図したので代わった。心配かけてごめんなさい、もうだいじょうぶ、またお店に来てねと話していた。
 「ヨコヤマさんって、どういう方なんですか?」
 夕食を食べながら、バンビさんに聞いた。今日は年始めのミーティングがあるらしく、いつもより一時間早い出勤だ。
 「優しいの。その上、カッコいいの。その上、お金持ちなの。文句ないでしょ」
 「何をやってる方なんですか?」
 「コンサル会社の社長。あーしたほうがいい、こーしたほうがいいってアドバイスする会社だって言ってた」
 「何歳ですか?」
 「28かな。三つ上」
 「すごいですね、その齢で社長だなんて」
 「うん、サラブレッドなの。とある大企業の御曹司」
 バンビさんはすこし食べて、箸を置いた。いっぱい食べると眠くなってしようがないらしい。
 「・・・結婚のご予定は、とか聞かないの?」
 バンビさんは頬杖をついて、首をぐりぐり回した。
 「するんですか?」
 「しないわよ」
 「・・・はぁ」
 「できるわけないでしょう。したら、日本中、大騒ぎよ」
 バンビさんは怠そうに立ち上がると、ドレッサーに移動した。
 「バンビさんは結婚願望あるんですか? あまりそうは見えないけど」
 「・・・いまのところないです。犬を飼いはじめちゃったしね」
 「ワン」ととりあえず、鳴いた。
 「・・・彼のところで何かあったんですか? ああ、別にいいです、答えなくても・・・ただ、何かあったのかなって」
 「なんかね、急に悲しくなっちゃったの。・・・わかる? そういうの」
 バンビさんは化粧をする手を止めて、鏡に映りこむわたしを見た。
 ぞくっとする。こんなときに不謹慎だけれど、哀しそうな瞳のバンビさんって凄く綺麗だなと思う。鑑賞価値が高すぎる。絵が描きたい。
 「・・・わかる気もします」
 「なんだか幸せなときになるのよ。変でしょ?」
 バンビさんは思い出したように続けた。「なんかね、胸の中に幸せって名の小さな妖精がいて、その子が次から次へとドアを叩いて開けていくってイメージなの。外はこんなに良い天気、みんな出ておいでよって」
 そのイメージを想像する。文字通り、幸せいっぱい胸いっぱいって感じだろうか。
 「・・・でもね、中には暗い子もいるのよ、外に出しちゃいけないみたいな」
 バンビさんは苦虫を嚙み潰したような顔で笑った。「でも、手当たり次第に出しちゃうの、調子に乗って。ほら、幸せな子ってお節介でしょ? 世界中を幸せにできると思っている」
 「・・・わかる気がします」
 「で・・・外に出されたはいいけれど、あたりを見回したら、外の世界も自分も何も変わってない。・・・それでまた、激しく泣き出しちゃったの」
 童話の世界のようになってきた。
 「・・・その子は泣き虫なの。どうしようもないの。国中を暗くするから、ドアの向こうに閉じこめておくしかないの・・・でも、本当はその子、自分で引きこもったのよ。外にいても、つらく悲しいだけだからって」
 「その子はいま、どうしてるんですか?」
 「・・・このあたりかな」
 バンビさんは左のオッパイの下あたりを手で押さえた。
 「このあたりにいる」
 「おうちに帰れそうですか?」
 「・・・帰ると思う。いままでもずっとそうだったから。外に出てても、泣く以外やることないんだもの。そのうち飽きて疲れてすごすごとおうちに帰ると思う」
 バンビさんは首を左右に振って、ほつれ毛を払うと、鏡をじっと見た。ブラシを手に取って、ゆるやかなウェーブが入った長い髪を丁寧に整える。ヘアクリップで前髪を止めた。
 「ちょっと化粧に集中します」と言って、話をやめた。
 バンビさんはきっと化粧をしているとき、わずらわしい思いから解放されるんだと思う。泣き虫や弱虫や癇の虫やいろいろな虫がいない世界へ行けるのだ。そのドアの向こうには美の世界が広がっている。鏡よ、鏡よ、鏡さん、この世界でいちばん美しいのは誰? 
 化粧をするのが魔法のお薬のように見える。いつものように丹念に筆を入れ、ラインを引き、その日その日の仮面をつけるように自分を創り出していく。
 「・・・加奈子は急に悲しくなるときはないの?」
 付け睫毛をパチクリさせながら、じっと見ているわたしに聞いた。
 「・・・最近はないです」
 「昔はあったんだ?」
 「・・・中学生ぐらいまでです」
 「どんなとき?」
 「・・・どんなときってのはないです。いろんなときです」
 「そういうとき、どうしてたの?」
 「ちょっと暗い話になっちゃうけど、いいですか?」
  わたしも童話にして話そうかな。
 「・・・怖いわ。まさかネコか何かを代わりに生贄にしてたとか、そういう話じゃないでしょうね?」
 「それはないです」わたしも一緒になって笑った。「生贄にするなら、何百匹って祭壇にお供えしなくちゃなりませんから」
 ドン引きしてるバンビさんをじっと見て「・・・嘘です」と訂正した。
 ちょっとわたしもお芝居が上手くなったかな。
 「当時、人気の女子プロレスラーがやってたことの真似なんですけど、お風呂の中に沈んで、自殺未遂を何回もやってました」
 「どういうこと?」
 「息を止められる限界まで沈んでるんです。でも、最後は苦しくなって、やっぱり息を吸おうと浮上してしまう。いま、思い返せば、ごっこ遊びみたいなものですけど、ああやっぱりわたしは息を吸いたいんだな、生きたいと思ってるんだなって確認してました」
 「それもそうとう暗いわね」
 「半分、遊びみたいなものです」
 「いまはやってないの?」
 「・・・いまは考えることにしています。なんで悲しいのか、なんでそんなことをしたがるのか。もちろん、考えたところで答えが見つからないときも多いです。でも、中途半端に苦しむことはなくなりました。ずいぶん楽になりました」
 「・・・あなたもいろいろあって、今日のあなたがあるのね。・・・でも、考えてると胸が苦しくならない? 死にそうにならない?」
 「苦しくなったらやめます。だいたいそこから先は感情の世界なので、考えてもどうにもならないことが多いです。相手もあることだし・・・でも、がんばってトライしていくと、だんだんタフになるというか、免疫ができてきます。そうやってすこしずつ、だいじょうぶな領域を拡げてゆくんです」
 「・・・勉強になるわ。逃げ回ってちゃダメなのね」
 「いっそ友達になっちゃったほうが楽です」
 「わたしも今度、それ、やってみようかしら? 自殺未遂」
 「・・・そっちですか?」
 「でも、やる前に加奈子にどうやるか見本を見せてもらわないと」
 バンビさんは童話に出てくる腹黒い魔女のような顔になって笑った。
 「そう言って、絶対、上から頭を押さえつけますよね?」




       32


 昔、大きな台風が来て、崖か斜面が崩れて、いつも歩いていた山道が通れなくなったことがある。園長先生の家の裏庭から山へ登る獣道のような細い道の途中だ。よく、みんなでハイキングに行った。ドングリを拾ったり、花を探したり、虫を獲ったり。
 どうしましょう? 崩れた土砂や倒木を取り除くのは不可能だった。
 新しい道を造ろう。みんなで迂回路を造ろう。
 あのときは楽しかったなぁ。だって自分たちで道を造るなんて初めてだったから。生まれてからずっと誰かが造った道を歩いてきた。わたしたちが生まれたとき、世界はほぼ完成していて、多くの道ができていた。未開の山奥にでも行かない限り、自分で道を切り開くなんてない。
 みんなで山の茂みに手分けして入り、道になりそうなコースを探した。崩落地点からかなり引き返した、なだらかな山合を通るコースが選ばれた。大きな木は大人が伐ってくれた。わたしたちはそれを細かく切ったものや、竹や石を運んで、小道の柵や敷石を整備した。2か月ぐらいかかった。
 あの道はいまも残っている。通ると、いろいろなことが音や声やにおいを伴って、よみがえってくる。あの後、道はそこを歩くみんなの足で踏み固められて、確かなものになった。『新しい道』と名付けられた。
 加奈子はそんなことを思い出しながら、雪掻きをしていた。朝、早く起きて、外に出ると道がなかった。消えていた。
 10年ぶりの大雪になりそうだと昨夜のニュースが騒いでいた。
 2週間ぐらい前に雪が降ったとき、マンションの住人が雪掻きをしているのを見た。マンション名が書かれたスコップが自転車置場の端に立て掛けられていた。今度、雪が降ったら、率先してやろう。
 エントランスから道路に出るアプローチの雪掻きは終わった。幅50㎝ぐらいの道を造れば、じゅうぶんだろう。これは『新しい道を造る』ではなく、あった道を復元するだけど、高揚感はある。まっさらな何もないところに道を造ってゆくのは気持ちがいい。雪が重い冷たい寒い疲れるなんて思いながらやると重労働だけど、自分はいま自分が歩く道を造っているのだと思うと、スコップを握る手にも活力が入る。
 やがて住人が一人二人と出てきて、雪掻きを手伝いはじめた。簡単な挨拶を交わし、黙々と作業をする。朝早くに出勤する人が「お疲れさまです。ありがとうございます」と挨拶していく。今日は月曜日だ。電車は走るのだろうか?
 マンションの敷地に面した舗道まででいいと思ったけれど、その先の道が人員不足で苦戦してるようだったので、余力もあったし、手伝うことにした。結局、大通りの表参道まで雪掻きをした。部屋を出て、もう1時間以上たっている。
 こどもたちが家から出てきて、雪遊びをしている。車も徐行運転だけど走りはじめた。真っ白だった夢のような雪の世界が、生活をする人間の現実で徐々に壊され、薄汚れてゆく。非日常の時間は短い。この後はいつものように厄介もの扱いされるのだろう。
 加奈子は暖かい部屋に戻ると、風呂場でダウンを脱いで、手袋やマフラーを外した。水分をはたいて、カーテンレールに干す。さ、リビングに行って、熱いチャイでも作って飲もう。
 バンビさんは寝ている。起きるのはいつものように午後近くだろう。月曜日で通常は休みをもらっている日だけど、今日はバレンタインデーなので出勤だ。昨日のうちにお客さん用のチョコを買いに行ってよかった。
 昨日買いものの帰りに買った調理パンを紙袋から出し、大きなお皿に並べた。ラップをかける。バンビさんの今日のお昼はこれでいいだろう。
 自分用に買ったパンをお皿ごと持って、窓辺に行く。曇ったガラスをスウェットの袖でぬぐい、庭を見る。真っ白な世界が眼前にシロップをかけてないふわふわのかき氷のように広がっている。
 庭はこのままにしておこう。ゆっくり雪が解けていくのを見よう。
 やがて雪の下でじっと耐え忍んでいる芝や、抜かずに残したタンポポのロゼットの葉が、春に焦がれるその熱い思いと体温でゆっくり静かに雪を解かし、地表に顔を出すだろう。




      33


 園長先生の庭は、いわゆる『ナチュラルガーデン』と呼ばれてるものだ。
 自然っぽい庭。ほったらかしにしているようだけど、ちゃんと手は入っている。
 庭の景色は毎年、微妙に変わる。人によっては全然気づかない変化だけど、わかる人にはわかる。
 樹木は生きものだから成長する。空間をどんどん覆っていく。すると、下に生えてる植物に陽が当たらなくなる。お互いのベターを選んで、人間が剪定する。ときには面白い方向に枝を伸ばす。この枝が伸びていったら見映えがするなぁと思ったら、放っておく。ときには誘引する。基本は生存競争だから、様子を見て、仲裁に入る。草花は枯れたり、勢力を広げたりする。その地に適応できたものは生き残るし、適応できなかったものは途絶える。ちゃんと適地を選んで植えたつもりなのに枯れてしまうものもあれば、ここはどうかなと試しに植えたものがすくすくと成長する場合もある。思い通りにならない。植物には植物の事情があるみたいだ。蔓植物も放っておくとあらゆるものに絡み付く。絡み付かれたものは弱ってしまう。仲裁に入る。花が終わったら伐るよとか条件付きで保留する。ときには鳥が糞で種を運んだのか、知らない植物が生えてくる。図鑑で調べる。結局わからずじまいで、花をつけるまで待っことにする。雑草でも可愛い花はある。生えてくる場所によっては抜かないで残してやる。
 庭には、もとからいるもの、植えたもの、勝手に生えてきたもの、いろいろな植物が共生している。それらを最終的に差配し、デザインするのは人間だ。バランス、フォーカルポイントなどを考えて、ときには奇もてらって、景色を創っていく。それは植物の成長や人間の思いに寄り添って、毎年、変化し、移ろってゆく。
 「ここは自然ではなく『庭』ですから、70%はわたしが決めます。でも、残り30%は植物たちの声を聴き、決めます。植物たちはときに人間が想像もしない思いがけない提案をして、驚かせてくれます。それは植物たちが与えられた地で必死に生き伸びようとする戦略でもありますが、懸命に生き残ろうとしているその姿が感動を運ぶのです」
 園長先生はそう言っていた。
 「よく、コンクリートの隙間から芽を出して咲いた花や実った野菜が、テレビのニュースで紹介されますね。生きようとする植物の力に驚嘆し、勇気をもらいます。そう、わたしたちが心の奥底で求めてるものは、力強い大いなる自然の物語なのです。自分より遥かに大きく、人間の想定を超えて、かつ、わたしたちを包みこんでくれる母のようなもの。先人はそれを『自然への畏怖の念』と呼んできました」
 園長先生の話を聞きながら、よく庭を歩いたものだった。芽を出した草花や咲きはじめた花を見つけては、立ち止まり、いろいろと教えてくれた。
 先生は公園や町の花壇が好きではなかった。列植されたパンジーやチューリップを見ると、いつもため息をつくようにこう言った。
 「花壇にきれいに並んでる花を見ても、心が動かないのは、ここに自然の物語がないからです。ここに花は咲いていません。わたしたちが見ているのは、花の姿をした道具です」
 先生は日本庭園や盆栽も好きではなかった。
 「植物の美は人間の想像力を超えた先に在ります。人間が頭の中で考えたことなんて、襖に絵を描いてれば、じゅうぶんでしょう。わたしは生きている植物を見たいし、感じたいのです」
 先生の庭はさほど広くはなかったけれど、先生の目はいつも広大な自然を見ているようだった。ページをめくるのが待ち遠しくてたまらない飛び出す絵本のような、わくわくする世界が目の前に広がっているようだった。
 「自然は決して人間の思い通りにはなりません。彼らも我々と同じ生きものだからです。そこが庭をやっていて、とても厄介で難しいところです。でも、わたしはそこがいちばん面白く楽しいところじゃないかと思っています」
 「今年はミモザがきれいに咲いたね」
 わたしは玄関脇のミモザの木を見上げた。
 園長先生の庭に来ていた。ホームを訪ねたのは昨年秋の誕生日パーティー以来、先生の庭に足を運んだのは、ほぼ一年ぶりだ。
 「去年の秋、みんなで歯ブラシを持って、ハシゴをかけて、カイガラムシをごしごし落としたのよ。中学生になった男の子たちががんばってくれたの」
 園長先生は枝垂れているレモンイエローの花に手を伸ばした。
 カイガラムシはミモザを好んでたかる害虫だ。ほうっておくと葉っぱや蕾を全部食べられてしまう。
 「それに去年は一度も台風が来なかったしね。・・・すこし伐って、持ってく?」
 ミモザが満開に咲いたときはいつもリースを作って、玄関や部屋に飾った。
 「じゃ、あとでハシゴをかけて、伐って、もらっていく」
 マンションに帰ったら、リースを作って、玄関に飾ろう。
 「カナカナは元気にしてました?」
 先生と、立ち枯れた花が残るアジサイの前のベンチに並んで座り、話をした。先生はわたしのことをカナカナと呼ぶ。先生の庭を舞台にした物語の登場人物の一人になったみたいで昔から気に入っている。
 「はい、元気にやってます」
 「新しい生活には慣れましたか?」
 「はい。・・・先生とこの庭に会えなくて、すこし寂しいけど」
 遠目にも早春を告げる花がちらほらと咲きはじめているのが見える。この時季に咲く樹木は黄色い花が多い。レンギョウ、あ、マンサクも咲きはじめている。わたしの大好きな『アーノルドプロミス』・・・錦糸卵みたいな花が面白い。
 「いつでも遊びにいらっしゃい。いつまでもここはあなたのホームなんだから」
 先生はわたしの手に手を重ねながら、ぎゅっとした。皺だらけの乾いた手のどこから届くのだろう、柔らかなぬくもりが伝わってくる。
 「はい」
 「今日はポカポカして心地良いわね。春も、もうすぐ・・・この齢になると、毎年、春が待ち遠しくてね」
 先生はここ十年ぐらい、毎年、そう言っている。季節は巡って、一年がたち、また春が来る。
でも、今年の春の訪れはすこし遅れてるそうだ。春を迎える準備ーー降り積もっている落ち葉を掻き集めたり、枯れ草や枯れ枝を整理する手伝いに来たのだけれど、まだ雪も降るかもしれないし、霜が降りる心配もあるので、作業は来週か再来週に順延するそうだ。電話してから来ればよかった。
 でも、今年は中学生になった男の子たちが手伝ってくれる予定らしい。だから、人手は足りているそうだ。
 「さぁ、年寄みたいにいつまでも座ってないで、春を見つけに行きますか」
 先生は背筋をまっすぐにしてベンチから立ち上がった。大きなーーきっと昔からここにいるケヤキが立ち並ぶほうに歩き出した。
 わたしに物置小屋から籠とハサミを持ってくるように言った。きっとフキノトウを収穫しに行くのだろう。
 ケヤキの下で、へラボレスが落ち葉に埋もれるようにうつむき加減の花をつけている。咲きはじめたのか、沈丁花の微かな香りがときおり吹く風に乗って届く。夏の間、このあたりは葉を広げたケヤキの下で、日蔭となる。フキはところどころに群生している。いまはすっかり枯れて、その姿はない。落ち葉が静かに光熱殺菌されてるように、太陽の光を浴びている。虹色の光の筋が斜めに降り注いでいる。
 先生は冬の間、市場に出回る葉牡丹や一足早い春の花の苗を植えない。そのままの冬枯れた景色のまま、ほうっておく。
 「冬の庭は淋しくていいの。冬の庭には何もないけど、何もないからこそ、見えるものがある」
 フキノトウはわたしがお土産で持って帰るぐらいの分だけ、見つかった。落ち葉の下に隠れて、これから花を咲かそうとしている矢先にもがれた。でも、だいじょうぶ。あなたたちは根でどんどん勢力を拡大していく強い植物だから。これだけ、ちょうだいね。


 表参道のマンションに戻ると、バンビさんが立ち鏡の前でダンスの練習をしていた。
 イベントは一か月後に迫っている。難度が高くて、大変みたいだ。練習用の着物を身に付けて、ゆるりと舞ったり、振付をチェックしている。
 わたしは2回目の打ち合わせまで同席した。イベント主催の広告会社の人、振付の先生、舞台装置会社の人、映像クリエーター、総合演出プロデューサー、そしてバンビさんとわたし、7人が集まった。会場である六本木のディスコの開店前の日中を借りて行われた。ここ、あのとき、酔っぱらって記憶をなくしたディスコだ。あまり憶えてないけど。
 わたしはずいぶんと気後れしたけど、持参した絵コンテをーーバンビさんとディスカッションし修正したものを、皆さんに見せた。反応が怖かったけれど、素人なので失うものは何もない。
 皆さんはおべっかではなく、興味を持ってくれたようだ。和やかだった雰囲気が真剣な目に変わり、容赦のない質問が次々に飛んだ。わたしは真意を正確に伝えようと努力した。
 2回目のとき、修正案が広告会社の人から出された。ショーはバンビさんのソロではなく、ほかにニューハーフ2人、男のダンサー2人を加えた5人によるものとする。尺は10分。キャストはセンターの花魁にバンビさん、両脇を振袖新造と下男に扮したニューハーフと男のダンサーのカップルが固める。バンビさんの出番は総計で6分ぐらい。
 舞台ストーリーはわたしたちが提案したものを基本に練り直された。でも、バンビさんの心象風景や表情や所作などは、ほぼそのまま採用された。登場人物を増やしたのはステージが広いからで、その空間をフルに効果的にダイナミックに使いたい意向のようだ。また、構成に変化とメリハリをつけられる。
 音楽はストーリーをもとに和楽と洋楽をミックスした緩急のあるオリジナル楽曲が創られた。それに合う振付や演出を考え、舞台装置や背後のLEDビジョンに流す映像を作る。
 いまは振付も決まって、週2でスタジオでレッスンをしている。といっても、さほど激しいダンスはないみたいだ。激しい動きより、ゆるやかに舞うような動きに重きを置いているからだ。ほかの2人のニューハーフさんが運動量のあるダンスを割り当てられて大変らしい。
 わたしは荷物を持ったまま、バンビさんが一息つき、休むのを待った。
 「いい香りでありんすなぁ」
 運動で鼻孔が膨らんだのか、バンビさんがこっちを見て、言った。
 「ミモザです。リースを作って、玄関ドアに飾ろうと思って」
 「素敵」
 バンビさんはテレビの上から大きな赤い扇子を取ると、扇ぎながら、ドレッサーの椅子に腰を下ろした。
 「バンビさんはフキノトウは好きですか?」
 「嫌い」
 「・・・そうですか」じゃ、一人で全部天ぷらにして食べよう。
 「どこ、行ってたの?」
 「『小百合園』です。園長先生の庭に行ってました。・・・ボードに書いていきましたけど」
 「あら、見なかったわ・・・何しに?」
 「庭仕事を手伝いに。でも、まだ早過ぎて、ミモザとフキノトウをもらって帰ってきました」
 「・・・ちょっと踊りを見てもらえる? 感想を聞きたいわ」
 「見てましたよ。良い感じです」





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