比留間久夫 HP

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HP2000(仮題)34 ~ 36



     34


 疲れてる人は良い人だ。
 これ、何のコマーシャルだったっけ?
 新人研修のとき、昔のテレビCMをさんざ見せられた。
 ああ・・・滋養強壮ドリンクだ。
 疲れてる人が良い人なら、この世の中、良い人だらけじゃないの。疲れてる人は誰かのために一生懸命に働いてるから、良い人だって意味?
 おだてて、商品を売りつけようって魂胆が見え見えです。コマーシャルとは騙されてるって気づかせないで騙すこと。わたしたちは詐欺師の手先。
 けれど、本当に体力がなくなった。わたし、疲れたわ・・・って誰かの胸ではかなく言って甘えたい。
 女ホルを服むのをやめてみようかな。でも、やめたら、ヤバいことになるって先生に脅されている。まさか自分が生きる目的を見失って自殺するとは思えないけど、こればかりは自信がない。だって、死んでる人、いっぱい知ってるもん。
 服んでても、自殺は多い。調べたら一般人に比べて自殺率は高いし、早死に率も高い。命短し恋せよ乙女。ああ、それならせめて乙女に生まれてきたかったわ。
 性欲もなくなってきたし、サドっ気もなくなってきた。攻撃性が薄れてきたのには、かなり危機感を覚えている。だって、わたしを支えてきたのは怒りですから。牙を取られた獣に生きる価値はあるっていうの。文字通り、去勢されちゃったってことじゃん。
 ステージではバンビが背後のLEDビジョンの映像に合わせて、入念にリハーサルをしている。会場を使えるのは、今日を入れて2回だ。本番まで、あと2週間、間に合うのだろうか?
 結局、開催は4月4日、一日だけとなった。準備期間が短いし、予算的にもかなり無理。スポンサーは個人的に懇意にしてくれている外資系のITベンチャーの社長が応じてくれた。それもあってイベントタイトルは《性のドットコム革命 境界を超えろ! 最先端を走るトランスジェンダーの世界》になった。21世紀は良くも悪くもマイノリティが注目され、活躍する時代になる。その到来を高らかに予告するイベントだ。わたしはいちばん先に丘に登り、みんなに、そして自分の運命に、未来に、高らかにラッパを吹くのだ。
 イベントは18時開始23時終了。食事休憩90分を挟んで、2部構成。第1部は、アパレル系、美容系、宝飾系の人たちによるファッションショー。有能な、また個人的に好きな、知ってる限りの人たちに声をかけて、また知らない人は自薦推薦を含めて応募してもらって、決めた。会場には彼らの専門ブースも設置する。商品を販売したり、事業をプロモーションしてもらう。もちろん、彼らたちは全員、ゲイだ。もしくは、ゲイが中心に運営されてる組織だ。
 フード&ドリンクは原宿を拠点に人気を集めている、マージナルキッチングループに頼んだ。店で出しているものより、もっとブッ飛んだメニューを用意してくれることになっている。
 会場には文学や絵画やCG作品やオブジェや生け花など、アート作品もところどころに鏤めるように展示する。ゲームやアトラクションを開発する会社には体験型のブースを用意してもらう。美容整形チェーンや性転換系の医療を手掛ける関係者や旅行会社も専門ブースで出展する。休憩中や終了後の交歓パーティーでは、それらのエリアを愉しく有意義に回遊してもらえればと思っている。
 第2部は、20:30スタートだ。真面目な話をーー社会学者と哲学者の講演を30分だけする。「BE QUIET」の札は出すが、着席は強要しない。興味がある方だけ、聞いてもらえればいい。
 21時からは再びステージでエンターテイメントを展開する。
 トップは、MVで現在、引く手あまたの吉野さんにトランスジェンダーをテーマにした10分ぐらいのショートムービーを作って発表していただくことになっている。どんな作品が流れるのか、個人的にもとても楽しみにしている。
 その後はいま大阪でいちばん美しい旋律を奏でると評判の『尼崎カルテット』を呼んでいる。持ち時間は30分。セトリはまったく聞かされてない。どうなることやら。
 そして大トリは、ニューハーフによる『花魁ショー』だ。今回は外国人の方をーー各国大使館の方、外資系企業日本支部の方、プロモーターなどメディア関係者、バイヤーの方などをお客さまとして呼んでいるので、日本文化を前面に出したほうが良いと判断したのだ。
 いま、ほかのニューハーフたちも来て、ステージではショーの連携や立ち位置などのチェックが行われている。振袖新造役の子たちはルックスよりも、若くてダンスが上手なことを重視して選んだ。バンビに良い環境でストレスなくやってもらいたかったからだ。ニューハーフは競争心が強く、癖のある人間が多い。ヘタな人選をすると、ステージで足の引っ張り合いになる。

 


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 晁生は成田空港へ車を飛ばしていた。
 まったく、ジョージの野郎が急アルになんてなるから。店が引けた後、客と新宿御苑に花見に行って、酒を飲んで、暴れただって。あそこはアルコールは禁止だろ? まぁ、みんな、こっそり隠して持ちこんでるけどさ。僕は桜の下で死にたいって騒いでたそうな。代わりに警察に行って始末書を書かされ、それから収容されてる病院に直行だ。まぁ、命に別条はないということでよかったけれど。
 ジョージは最近、荒れている。今度、ゆっくり話を聞いてやろう。
 今日はニューヨークからケニーというプロモーターが来て、六本木のイベントへ連れていくことになっている。到着時刻は第1ターミナルに15時33分だ。現在、14:40分で東関東道に入ったところ。ギリギリ間に合いそうだが、自分はいつも予定より早く着いてるタイプで、急かされるこの状況は落ち着かない。運転に集中し、事故を起こさないようにしよう。
 ディスコ『ファンファーレ』で行われるイベントは午後6時からだ。晁生はそのイベントを知っていた。『2020』で展示販売している『XXX』や『牙』の連中が出展するからだ。ゲイのデザイナーやクリエイターが集結するイベントらしい。バイヤーやベンチャーキャピタルも来るそうだ。マスメディアの取材も入るらしい。
 ケニーを成田でピックアップし、そのまま六本木へ行く。6時の開始には余裕で間に合うだろう。しかし、ニューヨークからわざわざプロモーターが来るとは、見くびれないイベントなのかもしれない。

 ケニーはランウエイの横のテーブルに案内された。晁生も同行している。
 招待客用に10卓ぐらいのテーブル、各卓に椅子が5脚、合計50席ぐらいが用意されていた。それを取り囲むように小さなテーブル付きの観覧席が設置されていた。そこは追加料金が必要みたいだ。立ってる客も多くいる。
 ステージではスーツを着た主催会社の女性が開会の挨拶をしていた。しかし、話を聞いてるとどうやら女性ではなく、トランスジェンダーのようだった。すこし甲高い声でテキパキと話している。1センテンス話し終えると、英語で言い直す。外国人客が多いからだろう。通訳は必要ない。手に黄色いオモチャのラッパを持っている。最後にそのラッパを吹いて、イベントは始まった。
 「あのラッパは日本では何か特別な意味があるのか?」ケニーが真面目な顔で聞いてきた。
 「いや、単なるユーモアじゃないかなぁ」と答えたが、真剣な目で聞かれると自信はない。話の流れから考えると、進軍ラッパのようなものだと思う。ショーの開幕を告げるファンファーレのようなものだ。
 そう付け足すと、ケニーは肯いたが、納得してる感じではなかった。ケニーが思索的な男だということだけはよくわかった。
 しかし、休憩時にパンフをパラパラ見てたら、その答えらしきことが扉ページの裏のエピグラフに載っていた。

 軍隊の集合ラッパを吹いていたラッパ吹きが、敵に捕まえられてこう叫びました。
 「皆さん、考えもなしにわたしを殺さないでください。わたしはあなたがたを一人だって殺していません。このラッパのほかは、何一つ持っていないのです」
 すると敵はラッパ吹きに言いました。
 「お前は自分では戦争ができないのに、みんなを戦争に駆り立てるから、余計、殺されるのは当たり前だ」
    イソップ物語『捕虜になったラッパ吹き』(河野与一訳)

             開会の言葉に代えて 主催 ㈱天通 楽井 未来

 楽井未来とはさっきの司会者のトランスジェンダーのことだろう。

 ステージでは、ファッションショーが始まっていた。
 ランウェイをモデルがこれ見よがしに歩く一般的なものを想像していたので、ステージにモデルが一人二人と緊張感もなくぱらぱらと現れるのを見て、何だろうと思っていた。ステージには小さな公園のようなセットが組まれていて、モデルたちが思い思いに日常を過ごしているという設定だった。ベンチで仲睦まじくしている男たちもいれば、シーソーに座って一人で本を読んでいる男もいる。ギターを持って歌っている男もいる。バドミントンに興じているグループもある。スケボーに乗った男が急にステージに現われ、ランウェイを滑走した。ターンし、アクロバティックにポーズを決める。
 ハンディカメラとレフ板を持って自主製作映画を撮影中のような2人が、モデルたちの間を回遊し、一人一人を順にカメラでクローズアップしていく。背後のLEDビジョンにモデルがーーヘアスタイルや顔が、メイクが、着ている服が、付けてるアクセサリーが、アップで映し出されていく。服だけを見せるのではなく、ヘアーやメイクなどの美容系、アクセサリーなどの宝飾系・・・すべてを総合的に紹介していくという趣向だった。通底しているのはジェンダーレスだが、男っぽさを強調してるモデルもいるし、女にしか見えない人形のようなモデルもいた。最後に、バラバラに散らばっていたカレイドスコープの断片が美しい幾何学的な模様を作るようにモデルたちがステージ中央に集まってきて、談笑したり、歌を歌ったり、肩を組んで仲良くしながら、ランウェイを練り歩き、ショーは終わった。
 ケニーはハンディビデオカメラを回しながら、愉しそうに観ていた。晁生は正直なところ、羨ましかった。自分がやりたいと思ってたことだったからだ。『2020』で展示販売しているブランドの製品もアップで映し出された。バイヤーから声がかかるだろうか? 
 ここでイベントは第1部が終わり、90分のフリータイムになった。
 食事は一般客はバイキング形式だったが、テーブル席の招待客にはワンプレートでウェイターが運んできた。ドリンクやデザートも持ってきてくれる。晁生はいつも一般客のエリアにいる人間なので、このVIP待遇は気持ちが良かった。スタッフがみんな英語も使うので、通訳も要らない。今日はラッキーな仕事だ。
 ケリーは主催者と話をしてくると言って、席を外した。晁生も席を立ち、会場をぶらぶらと散策した。平日だったが、大勢の客でとても混んでいた。知り合いにも何人か遇った。ゲイが数多く来ているようだった。テレビクルーがレポーター付きでブースを回っている。来場者にインタビューしてる取材班もいる。みんな、顔出しOKなんだろうか?
 おもちゃのラッパが吹かれる音がして、晁生は大急ぎで席に戻った。第2部が始まったようだ。
 ケリーはイヤホンを耳にあて、ステージで行われているパネルディスカッションを聴いていた。たぶん、同時通訳されてるんだろう。『漸増するマイノリティ』というテーマだった。また何か質問されるかもしれないので、晁生も耳を傾けた。マイノリティは今後、飛躍的に増えていくだろう、マイノリティは造られてゆくのだといった要旨だった。
 パネルディスカッションが終わると、会場の全体照明がゆっくりと落とされた。
 ステージのLEDビジョンに閃光のようなノイズが走り、『Xジェンダー』というタイトルの映像作品が10分近く上映された。さまざまな境界が融けて崩れていき、そこに新しいものの誕生を待望するが、それはすでに遠い昔に滅んだもので、この世界は絶滅に向かってただ突き進んでいるだけだ・・・といったようなイメージに受け取られた。もちろん、解釈は人それぞれだろう。そういう作品だった。
 続いて、中世の古代都市を巡礼している歌劇団のようなバンドがステージに登場した。アコーディオンとチェンバロを主軸とし、ノスタルジックで優美なサウンドを奏でる。演奏が始まると、会場のあちこちで客が踊り始めた。回転木馬のような照明が降り注ぎ、おとぎの国になったような空間で不思議なゆがんだ時間が流れてゆく、その波間に揺られているような感じだった。あとから聞いたところによると、大阪のインディーズシーンでとても人気がある、神出鬼没のバンドらしい。
 そしてイベントもいよいよ最後のショーとなった。
 ケリーがお待ちかねの『OILAN』がやっと始まる。
 来年、タイムスクエアにトランスジェンダーのショークラブがオープンする。アングラな店ではなく、一流の食事やサービスを提供する高級な店だという。そのオープニングキャストを現在、世界を飛び回って探しているという。ブロードウェイの関係者も来店する名所にしたいという。
 今回、日本に来たのはイベント主催者から、あるニューハーフを推薦されたからだと言った。そのニューハーフがこれからステージに登場する。
 晁生は自分がいま、どういう気持ちでいるのか、よくわからなかった。・・・というか、考えようとしなかった。始まれば、きっとわかるだろう。いや・・・すこしはわかるだろう。





     36


 ショーは素晴らしかった、と思う。
 晁生はいろんな思いが去来して、冷静に観ていられなかった。
 昔のことや、別れた日のことが思い出されて、胸が苦しくなった。
 ニューハーフショーを見ながら大の男が泣くなんて気味悪がられると思ったので、ショーを演出するライトが眩しいフリをして、バッグから運転用のサングラスを取り出し、かけた。
 観終わっても、自分が本当のところ、何を思っているのか、考えているのか、よくわからなかった。わからなくていいと思ったし、わかりたいとも思わなかった。
 ケリーはモアイの石像みたいになっていた。やがて静かに立ち上がると、ステージに向けて、拍手をしだした。その先には豪華な色打掛を再び羽織って出てきた花魁の姿がある。花魁は高下駄を履いた足をゆっくり旋回するようにしてランウェイのところまで歩いてくると、観客に艶美な立ち居振る舞いで会釈を返した。
 そしてそのまま、ステージの中央までゆっくり戻っていく。
 ほかのキャストも登場し、並んで一礼した後、緞帳が降ろされた。
 ケリーは手を上げて、ウェイターを呼んだ。主催者への伝言を頼んでいた。席に花魁を呼んでほしい。
 ステージの出しものは終わったが、イベントは11時まで続く。あと、50分あまりある。
 ・・・亮がこのテーブルに来る?
 ・・・どう対応すればいいんだ?
 オレに気づくだろうか? 久しぶりと笑って再会するのか?
 亮の反応がわからない・・・たぶん、驚くだろう。オレだと気づいたら、驚くのだけは確かだと思う。
 来る前にちゃんと対応を考えておかなければ。オレは仕事でここに来ているのだ。
 「どうでしたか?」とケリーが聞いてきた。
 晁生はサングラスを外して「ビューティフル」と答えた。
 ビューティフルはオールマイティな誉め言葉だ。
 「日本人としてはどんな感想を持ちましたか?」
 観光客用のエンターテイメントだったかと聞いてるんだろう。
 自分を含めて日本人がさほど花魁のことを知ってるわけではない。でも、いまのショーのアプローチはいままでに見たことがないものだった。音楽、振付、演出、すべてが新鮮で面白かった。パッケージはポップで現代的なんだけど、味は老舗のしっかりした確かなものというギャップがまた良かった。・・・そう答えた。
 ケリーはうんうんと肯いていた。今度は納得してくれてるようだ。
 ステージ下の通路から、花魁が出てくるのが見えた。主催者の人と一緒にこちらに向かって歩いてくる。さすがに高下駄はもう履いてないようだ。
 テーブルまで来ると、ケリーは立ち上がって迎えた。花魁に挨拶と賛辞の言葉をかける。主催者に椅子を引かれ、花魁はケリーの横に座った。その横にトランスジェンダーの主催者も座った。
 晁生はうつむいていた。昔と髪型は違っている。すこし痩せたと言われている。もしかしたら気づかないかもしれない。
 花魁は、ケリーを紹介する主催者の言葉に耳を傾けながら、ケリーに視線を向けていた。こちらに関心は向かない。このまま主催者が通訳もして話を進めてくれるのだろうか?
 しかし、一通り話が終わると、主催者は用があるらしく、立ち上がり、席を離れた。そのとき、彼女を見送る目の流れの中で、初めて花魁がこちらをちゃんと見た、ような気がした。
 ・・・いや、ちゃんと見たのだ。固まったように動かない目がそこにあったから。
 「通訳の川西晁生です。よろしくお願いします」
 晁生は一礼した。
 驚愕が確信に変わって、どうしたらいいかわからないような花魁の顔がそこにあった。それは晁生も同じだった。
 「どうかしたのですか?」
 ケリーが聞いてきた。花魁と通訳がいきなり見つめ合ったまま黙ってしまったら、誰でも怪訝に思うだろう。
 「知り合いですか?」
 通訳しなくては。通訳するのがオレの仕事だ。
 はい、ビックリしてます。昔、新宿で遊んでいたときの親友です。久しぶりに会ったので、ビックリして、見つめ合ってしまいました。
 ジェスチャーを入れながら、ゆっくりとわかりやすい英語で花魁にも伝わるよう、笑いながらケリーに言った。
 すみません、プライベートなショータイムを入れちゃいまして。では、昔話は後にして、仕事に戻らせていただきます。
 「オー、アメイジング!」
 ケリーも驚き、偶然の再会を喜んでくれた。いま、ここには魔法の時間が流れてるのかもしれない、そう嬉しそうに言った。
 「昔、親友だったと彼に伝えました。いきなり会ったので、お互いビックリしてると。彼も魔法のようだと喜んでくれてます。でも、いまは大切なビジネスの時間なので、昔話は後にして、仕事に戻りましょう。・・・いいですか?」
 晁生はすこし叱るようなキツい目で花魁を見た。昔、こんな目で何度も亮を見たことがある。
 亮は静かに目を閉じた。心を落ち着かせるように大きく息を吸っている。昔のままだ。
 亮はゆっくり目を開くと、花魁に戻った。
 「ビックリしたでありんす」と言った。
 ケリーと晁生を見て「今日はけったいな方が席に呼んでくれるでありんすなぁ」と微笑んだ。
 どう通訳したらいいんだ?
 花魁はいま、彼女たちの世界の専用語で、驚いてますと言いました。今日は珍しい人が席に呼んでくれてると。
 「・・・ありす?」
 「ちがうどすぇ、あ・り・ん・す」花魁が訂正した。
 どすぇ・・・は確か花魁の言葉ではないだろ? 通訳するのはやめた。
 「ありんす」ケリーは言い直した。
 「はい、上手にできました」
 ケリーはひとしきり笑うと、花魁にいくつか質問してもいいですかと聞いた。知りたいことがたくさんあります。
 「『秘すれば花なり』という世阿弥の言葉を知っていますか?」
 知らないだろうと思いながら通訳した。
 通訳する度に亮と顔を、目を、合わせることになる。亮を見ているのではなく、花魁を見ていると思うことにしよう。
 花魁は『世阿弥』は聞いたことがあると答えた。
 「ショーの間、わたしはずっとその言葉を感じていました。例えば、哀しい状況でも哀しいとおもむろに面には出さない。些細な仕草や物事の流れや暗喩でそれを表現する。抑制された演技が見事でした。花魁の心が深く伝わってきました」
 どうにか通訳して伝えると、
 『ありがとうございます』と花魁は首をすこし傾げて、会釈を返した。
 「ショーの中でいちばん難しかったことは何ですか?」
 「踊りと姿勢です。バランスを取るのがすごく難しかったです」
 「普段から日本のダンスは嗜んでいるのですか?」
 「いいえ、今回が初めてです。こんな重たい着物を着て踊るのも初めて」
 「桜吹雪がピンクから赤く血の雨のように変わっていき、そのインクであなたが和歌をしたためるシーンが印象的でした。あれはどんな内容を書いていたのですか?」
 そのシーンは晁生も憶えていた。LEDビジョンに桜吹雪が北斎が描く荒浪のように舞い踊っていた。しかし、花魁は心静かに筆を取り、思案しているのだ。全体を通して花魁が教養や芸事に長けた女性として描かれていた。
 「あれは和歌ではありません。手紙です」
 花魁は思い出したように訂正した。
 「手紙? ・・・誰に書いていたのですか?」
 「お客さんです。・・・近ごろ、めっきり足が遠のいたお客さんに書いていました」
 「・・・ビジネス?」ケリーは苦笑いした。
 「そうです」
 花魁もつられて笑った。「・・・ナンバー1をキープするのは昔もいまも大変なんです」
 彼女の現在の仕事も引き合いに出して語ってます、と補足通訳した。
 「そういえば、一度だけ、笑うシーンがありました。上を見てましたね。あれは何を見ていたのですか?」
 「お天道様です。また今日も出てきたでありんすなぁって」
 「・・・神様のようなものですか?」
 「・・・よくわかりません。わたしはそれでもまた新しい一日は来るのだとうんざりした目で見てました」
 「どうにもならない、無力感のようなもの?」
 「・・・笑うしかなかったんです」
 「悲しみや苦しみなどのネガティブな感情が極まったとき、泣くではなく、笑ってしまうときがありますね。そういうことですか?」
 「そうだと思います」
 「物語としては、花魁は狭く閉ざされた過酷な世界から脱出を試みるが、結局はできずに終わるという暗いものでした。花魁の生きようとする強い思いを支えていたものは何ですか? どんなことを考えて、踊ったり、演じていましたか?」
 「・・・大好きだった人のことを思って踊ってました。その人と一緒になりたいって」
 「それはお客さん?」ケリーは笑った。
 「いいえ・・・お客さんではありません。心の中にいる人です」
 「理想の男性像のようなもの?」
 「・・・かもしれないです」
 ウエイターが、桜の花びらが浮かんだ冷たいお茶と練りきりの和菓子を持ってきた。主催者からだと言った。
 「天井から吊るされたワイヤーロープで宙を舞うシーンがありましたね。無限に続く回廊、無数にある部屋、その牢獄を、迷宮を、まるで鳥が空から見てるように・・・途中、番傘を突風に飛ばされて宙吊りになりました・・・あれは怖くなかったですか?」
 晁生もあの展開には驚いた。映像が流れていたLEDビジョンの長さは10メートル以上はある。その距離を、映像に合わせて、孫悟空のように飛び回ったのだ。最後は胸元から出した扇を翼のようにして無事に着地した。
 「それより、鬘が落ちないかと心配で・・・」
 花魁は思い出し笑いをして、首を振った。「怖いなんて感じる暇はありませんでした」
 ケリーは花魁の頭を興味深く見ていた。華美な簪が何本も突き刺さっている。自分の髪で鬘が取れないように結んでるんだと花魁は説明した。
 ケリーはテーブルにあった手帳をぺらぺら捲った。ショーの間、自動筆記のようにメモを取っていた。
 「ショーについて、最後にもう一つだけ聞かせてください。クライマックスの、蛇やキツネやもろもろの生きものが化身したようなエロティックなダンスについてです。妖しく煽情的なのに、下品にならないのはなぜでしょう? 気高さすら感じました。もし差し支えなければ、その秘密を・・・例えば、何を空想して踊っていたのか、こっそり教えていただけませんか?」
 「今回は何も考えてなかったです。具体的なことを考えるとやり過ぎるので、型を忠実に演じてくれと言われました」
 「それは誰の指示ですか? 演出家?」
 「あそこにいる女の子です」
 花魁は会場の遠くのほうを指で指した。誰を指してるのか、わからない。
 「『OILAN』のわたしのパートの演出、構成はほとんどあの子が考えました。わたしはただ言われるがまま、やっただけです」
 「もしよろしかったら、その女の子をここに呼んでいただけませんか?」
 花魁は立ち上がって、右手を高く上げて振った。壁際のベンチに座っていた子が立ち上がって、こちらを見ている。花魁は手招きして、呼んだ。
 女の子は重そうな大きなバッグを肩にかけて、小走りにやって来た。ショートヘアの背が高い子だった。若草色のパーカーにダメージジーンズを履いている。
 ケリーが立ち上がって、花魁の横の席の椅子を引き、座るよう促した。女の子は花魁の顔を窺って了解を得ると、要領を得ない顔で座った。
 「カナコといいます」
 花魁が女の子を紹介した。「19歳の美大生です。いま、わたしの家に転がりこんで、家政婦みたいな付き人みたいなことをしています」
 女の子は紹介を受けて、ケリーに深々と礼儀正しく頭を下げた。
 「この方はケリーさん。ニューヨークからいらっしゃったプロモーターさん。こちらの人は通訳をしてくれてる川西さん」
 女の子はまた頭を下げた。ケリーも真似をして丁寧にお辞儀を返した。
 「いまね、ショーの演出や構成はあなたが考えたものだと言ったら、呼んでくれって話になったの。それで呼びました」
 「素晴らしいショーでした」
 ケリーは女の子に言った。
 「あ、あ、ありがとうございます」
 「お話を聞かせてもらえますか?」
 「はい、わたしでよければ」
 女の子はまた花魁を窺った。花魁は肯いている。
 「その前に失礼がないように一つ確認しておいていいですか?」
 ケリーが言った。「正真正銘の女の子ですよね?」
 「はい」花魁が含み笑いしながら、代わりに答えた。
 女の子はケリーの質問に言葉を選びながら慎重に答えていた。いいかげんなことを言ったら、花魁に不利益が及ぶと心配してるように。
 晁生は新たな展開に戸惑っていた。いまは女の子と一緒に暮らしているのか。
 注意したのは三つです。安っぽくしない、下品にしない、お涙頂戴にしない。自分がもし花魁で後世そのように描かれたら、どうしようもなく悲しくなると思ったのです。
 「プライドということですか?」
 「はい。矜持が彼女たちをギリギリのところで支えていたと思います」
 「だから、エロティックな表現を様式美に昇華させたということですね?」
 「はい。バンビさんなら、それでじゅうぶん表現できると思ったのです」
 「露出は最後だけにして、全体を貴婦人のように描いたのも、そういうことですか?」
 「はい。バンビさんはことさら肌を見せなくても色っぽいです。でも、見せても色っぽいから、最後はお約束もちゃんと入れました」
 最後のシーンで、花魁は帯をほどき、豪華な着物を脱ぎ捨て、ヌードスキニーなボディスーツ姿になる。まるで裸のように見えて、ドキッとした。ボディラインがくっきり浮き出る。肌色の薄い生地にはところどころ蛇やキツネや鳥や花やいろいろなものがプリントされていて、それらの図柄がまるで生きているかのようにLEDビジョンにアップで映し出された。
 しかし、舞台を照らしていた煌びやかな照明が暗転し、花魁はまたもや闇に包まれる。再三、効果的に使われている郭格子が正面を立ち塞ぐように出現する。郭格子は照明によって描かれている。ときに婉曲し、ときに溶解し、七色にもなる。その向こう側で、黒いシルエットだけとなった花魁がさまざまなものに擬態するかのように艶めかしく蠢く。ファンタジーを見ているような、神話を見ているかのような気分になった。
 「また、ショーがあるとしたら、バンビさんにどんな役を演じてほしいですか?」
 女の子はケリーに聞かれて、花魁を見た。
 「・・・いまはちょっと思い浮かびません。でも、バンビさんならどんな役も演じられると思います」
 主催者がテーブルのそばに来て、話が一区切りつくのを待っていた。女の子が話し終えると、ケリーに一礼してから、花魁に声をかけた。
 「バンビ、そろそろ着替えないと。テレビの取材がホテルで11時半に入ってるから」
 その旨をケリーにも英語で伝えた。
 花魁は頷き、先に席を立っていた女の子にアシストしてもらい、立ち上がった。
 「最後にもう一つだけ」
 ケリーが言った。「店が無事にオープンした暁には、ニューヨークまでオーディションを受けに来ていただけますか?」
 「前向きに考えさせていただきます」
 花魁は嬉しそうに言った。
 「では、その日まで。今後の連絡は彼女でいいですか?」
 主催者の女性を指した。
 「はい。お願いします」
 ケリーも立ち上がって、花魁に握手を求めた。握手が済むと、手を大きく広げて、花魁をハグした。
 「どうもありがとうございました」
 花魁は晁生を見て、通訳のお礼を述べた。
 「こちらこそ」晁生もにこやかに笑みを返した。
 「あれ、君たち、連絡先を交換しなくていいのかい?」
 ケリーが思い出したように言った。
 『連絡先を交換しなくていいのかと言ってます』
 晁生はその問いを自分は答えず、花魁に通訳した。
 花魁は晁生を見ていた。愛しいお客を見るように5秒ぐらい見ていた。
 「・・・いいです」と答えた。「もうじゅうぶん話しましたから」
 そうケリーに伝えた。
 「話したのは君と僕で彼は通訳してただけだよ」ケリーが笑った。
 『話したのは君と僕で彼は通訳してただけだと言ってます』
 亮はそれには答えず、笑っただけだった。
 「さようなら」
 ケリーと晁生に言って、もう一度、会釈をし、歩きはじめた。
 「いいのかい?」ケリーは晁生を見た。
 もう一度、会っても、話すことは何もないように思える。
 もうすべて終わったことなのだ。・・・友達になれるとも思えない。
 「OKです。気にしないでください」晁生は答えた。「さぁ、これからどうします?」
 ケリーはすこし怪訝そうな顔をしていたが、まぁいろいろあったんだろうみたいな顔になった。
 「今日はもう疲れたから、ホテルへ行って寝るよ」
 「センチュリーでしたよね、送っていきます」
 明日の夜もケリーに同行することになっている。明日は新宿のニューハーフクラブを回る。
 「ありがとう、助かるよ」
 花魁の姿がどんどん小さくなっていく。ときおり人混みに消えるが、派手なので、すぐに見つかる。
 ケリーはテーブルの私物を片付けはじめた。ハンカチで丁寧に拭き、カバンに入れていく。
 「もう一杯、コーヒーを飲んでいってもいいかい?」と晁生に聞いた。
 晁生は手を上げて、ウエイターを呼んだ。
 「君も飲むかい?」
 「僕はいいです。ちょっと電話をかけてきます」
 晁生はバッグを持って、出口へ向かった。

 スタッフオンリーとプレートが貼られたドアのすこし前で、晁生は花魁に追いついた。
 女の子が足音で晁生に気づき、「通訳の人」と花魁に教えた。
 「久しぶり」
 振り向いた花魁に、晁生はぎこちなく手を上げた。
 花魁は見る見るうちに泣きそうな顔になって、
 「・・・元気にしてた?」と晁生に聞いた。
 「ああ。・・・亮は?」
 「見ての通り。わたしなりにやってる」
 「綺麗だったよ、すごく」
 「ありがとう」
 「わたし、先に楽屋に行って待ってましょうか?」
 女の子がどうしたらよいかわからぬ様子で、花魁に言った。
 「・・・いいの。あなたはそばにいてちょうだい」
 「また、違う日にしようか? この後、用事があるみたいだし」
 「うん・・・本当を言えば、そうしたい。だって、わたし、いま、花魁だもの」
 再会の日に安いサンダルを履いてたって誰かの歌を思い出した。
 「晁生はいま通訳の仕事をしてるの?」
 「ああ。あの後、アメリカへ行って英語を覚えたんだ。去年から2丁目で店もやってる」
 「どんな店?」
 「普通のラウンジバーだよ」
 遊びに来なよと言おうとしてやめた。客層が違いすぎる。
 「晁生は変わらないね、通訳してもらってて、そう思った」
 「必死だったよ」
 「・・・今日の夜中は空いてる?」
 「2時間後ぐらいなら」
 「さっきの人が全日空に部屋を取ってくれてるの。これからそこに戻る。今日はこの子とそこに泊まるの。・・・何号室だっけ?」
 女の子は大きなバッグのサイドポケットから鍵を取り出した。
 「907号室です」
 「もしできたらそこに来られない? ごめんね、無理言っちゃって・・・今日中に会っとかないと、勇気が出そうにない」
 「わかった。・・・行くよ」
 「じゃ、待ってる」







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