比留間久夫 HP

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HP2000(仮題)13 ~ 17


     13


 バンビさんは昨日から元気がない。
 物憂げで、ダルそうにしている。
 たまに穴ぼこに落ちると言う。時間がたてば、穴は埋まるし、些細なことで浮上することもあるから、ほっといてと言われた。何かしてもらいたいときは呼ぶから。
 いまはリビングでテレビをつけて化粧をしている。
 でも、今日は夕食をすこし食べた。まだ食べるかもしれないので、そのままにしてある。
 わたしは自分の部屋に引っこんで、古いスクリーン誌をぱらぱら捲っている。声が聞こえるようにドアは開けてある。
 自分もたまにドツボにハマりそうになるときがある。足音が聴こえてくると、オーケストラを総動員して掻き消すようにしている。たまに余裕があるとき、どんな感じなのかなと覗きこむこともある。見るのを怖がっていたら、いつまでたっても『闇雲』であり続けるからだ。でも、ちょっとでも覗きこむと、戻るのが大変になることも知っている。だから、ドツボがどのくらい深いのか、わたしは知らない。たぶん、一生、知ることはないだろう。降りようとすると、心やからだが悲鳴を上げてわたしを止めるからだ。「壊れる、自分が壊れる」と。
 ・・・ああ、ちょっとヤバい。バンビさんのことを考えてたら、自分までおかしくなってきた。こういうときは自分がしっかりしないと。
 バンビさんは隣の衣裳部屋に移動した。ドレスを選んでるような物音が伝わってくる。今夜は何を着ていくのかな? どんなメイクをしているのかな?
 リビングに戻った。ドレッサーの前で、ポージングや表情を作って、最終チェックをしているのだろう。見たいなぁ。
 しばらくたつと、電話をしている声。それから玄関へ向かう足音が聴こえた。玄関でハンガーに一旦ハンドバッグをかけて、ハイヒールを選んでいる気配。
 「じゃ、行ってくる」という声が聞こえて、わたしは大急ぎで玄関へ向かった。
 「どう?」バンビさんが言う。
 わたしはバンビさんを衛星のように回り、ドレスや後ろ髪をチェックする。
 「今日もお綺麗です。パーフェクトです」わたしは召使いのように報告する。ふざけ半分で演ってたことが最近はすっかり板に付いてしまった。
 「じゃ、稼いでくるわ」
 「行ってらっしゃい」わたしは頭を下げて、見送る。
 玄関の扉がゆっくり閉まる。カツ、カツ、カツ・・・とハイヒールが遠ざかっていく音。すこし寂しくなる。もう二度と帰ってこないんじゃないかと思う。
 わたしは扉のロックをかけて、乱れた玄関の靴を整理整頓する。バンビさんの芳香が立ちこめている玄関を後にして、リビングに向かう。
 食卓に座り、テレビはつけたまま、一人、遅い晩御飯を食べる。バンビさんが残したものまで食べたら、お腹がいっぱいになってしまった。
 洗いものをして、掃除機をかけて、お風呂に入る。ついでに洗濯機を回す。洗濯物をお風呂場に干して、出る。黙々とルーティンをこなす。
 バンビさんはいまごろ、お店でお酒を飲んだり、客をもてなしたり、歌ったり、踊ったりしてるんだろう。生で見てみたいな。お客でいきなり行ったら驚くだろうな。
 さあ、わたしも自分で決めた課題に一生懸命に取り組むことにしよう。明け方ぐらいまでかかるかもしれない。そしたら、帰ってくるバンビさんを出迎えられるかも。




     14


 バンビさんは今日は機嫌が悪い。
 ツケのお客さんの入金が遅れてるようだ。50万近くになるという。会社の経営も思わしくないという噂を聞く。不払いの場合、自分の借金になるそうだ。
 店の順位も落ちる。ただでさえ、やる気薄で下がっているのに、これ以上陥落したら、さすがに沽券にかかわる。
 バンビさんの収入がどのくらいに上るのかは知らない。チップの整理はするけど、給料の管理までは任されてない。だけど、チップだけで月収50万近くになる。毎日、万札や紙幣の皺を伸ばしクリップでまとめてると、人のお金ながらも金銭感覚が壊れていきそうで怖くなる。いまは坦々とやってるけど。
 しかし、支出も多そうだ。美容院、エステは頻繁に行く。ダンスや歌のレッスン。タクシー代。家賃。クリーニング代もバカにならない。家での食費はわたしが担当してるので唯一リーズナブルだ。
 外出したときも高価な洋服やアクセサリーをがんがん買う。以前はお客さんを店に連れて行って買ってもらうことが多かったそうだ。でも、いつもタダでって訳にはいかないでしょ? 食事に行ったり、旅行に行ったり、ホテルに行ったりもするわけよ。好きなタイプなら一挙両得でいいけどね。だけど、だんだん煩わしくなってきたの。もうこういうことはしないでいいんじゃないかって。自分を安売りしてるとか売春してるとかじゃないの。そういうプライドはわたしにはない。なんだかいやになったの。
 だから、最近は自腹で買うことが多い。それでも宝石やバッグはしょっちゅうプレゼントしてもらってるけど。もう、ここ3年ぐらいはお客さんとは寝てないかなぁ。
 わたしは話を聞いてて、水商売はいろいろあって大変なんだなぁと思う。でも、バンビさんがそんなことしてるところを見たくはない。
 わたしは人の愚痴や悩みを聞くことは苦にならない。施設で年少の子たちの話をいつも聞いてあげてたからだ。お姉さんなんだから有益なアドバイスをしなくちゃと気負う必要もない。目を見てじっと話に耳を傾けてあげればいいのだ。喋り終えて、数日後には、その子はたいてい元気になっている。自分もそうだった。園長先生は黙ってわたしの話を聞いてくれた。そして最後に優しく抱いてくれた。いまもあの無言と体温がわたしを支えている。
 こんなことを急に思い出したのは、さっきバンビさんが出勤するとき、不意にわたしに寄り掛かってきたからだ。出る間際、一段低い玄関ホールに立っていたので、わたしの顎の下あたりに頭がつく形になった。
 しばらくそうしていた。
 わたしは急なことに当惑していたが、何も言わなかった。こういうとき、相手が何か言うのを待つ、という癖が染みついてるからだ。ただ、手は自然に動き、バンビさんのヘアスプレーできれいにセットされた後頭部のあたりを崩さぬように「いい子、いい子」と撫でていた。
 バンビさんはしばらくじっとしていた。
 やがてわたしの胸でふーっと深く一息吐くと、
 「じゃ、行ってくる」と言って、顔を上げた。
 化粧は乱れてない。
 わたしは泣きそうになった。でも、泣かない癖もついている。
 「行ってらっしゃい」と言って、見送った。



     15


 「加奈子は男に興味はないの?」
 バンビさんはドレッサーの前で、雑誌に目を落としながら、メイクをあれこれ試している。
 「ありますよ」
 わたしは昼食の後片付けをしながら答える。
 「好きな子はいないの? 学校とかに」
 「・・・ステキだなぁと思う人はいますよ」
 「付き合いたいとか思わないの?」
 「いまはいいです。バンビさんに一途ですから」
 台所でバンビさんにウインクしながら答える。もちろん、見えてない。
 「自信がないの? 傷つくのが怖いの?」
 「自信はありません。でも、傷つくのは怖くないです」
 「ちょっとこっちに来て」
 また、髪の後ろを押さえててとか雑用だろう。
 「はーい」と言って、手をタオルで拭いた。
 行くと、「ここに座って」と言われた。
 バンビさんは立ち上がって、ドレッサーの椅子を指差している。
 座ると、「化粧してあげる」と言われた。
 「いいです」とわたしは言って、立ち上がろうとした。
 「アレルギーはない?」
 バンビさんは手で制し、わたしを無視して勝手に進める。
 「ないと思いますけど、よくわかりません」
 「じゃ、痒くなったりしたら、言ってね」
 わたしの髪を後ろからブラッシングし、数か所をヘアクリップで束ねて、顔の輪郭を露出させた。されるがままに事の成り行きを見守るしかなかった。
 バンビさんは美容院の人みたいに鏡に映るわたしの顔をしばらくじーっと見ていた。
 恥ずかしいです、そんなにじーっと見つめられたら。
 ダイニングへ行き、椅子を持ってくると、わたしを横向きにし、目の前に座った。
 また、じーっとわたしを見ている。見つめるバンビさんの顔はバタフライマスクのようなメイクが施されている。雑誌に載ってたものだ。中世ゴシックふうですこし怖い。
 ドレッサーに整然と並んだ化粧品を手に取り、魔術がーー化粧が始まった。目の前に度アップでバンビさんの顔があり、視線をどこに合わせたらいいかわからない。目を合わせるのも照れるので、左下を見ることにした。何やら液体や半固体が指の先や腹や複数の指を器用に使って皮膚に塗りこまれていく。化粧品の甘い香りが鼻をくすぐる。一手順終わると、ちょっと離れて見る。スポンジやパフや筆や刷毛などいろいろな道具が使われる。なんだかボーっとしてきた。
 高2のとき、園の『職業体験』で行った老人ホームを思い出した。おばあちゃんたちが日当たりの良い一室で並んでお化粧をしてもらっていた。前向きに生きる意欲を呼び覚ますケアの一つだと言ってた。「ほら、鏡を見てご覧なさい。あなたは本当はまだこんなに綺麗な人なのよ」
 自分の顔がどうなっていくのかわからないけど、不本意な気持ちとは裏腹に胸は高鳴っていく。いまは冷たい鉄の器具を睫毛に当てられている。鼓動の質が変わってきている。バンビさんを間近に感じる緊張は解けてきて、鏡に映る自分と対面する不安が勝ってきている。こんなに丁寧にお化粧してもらって、それでも代わり映えしなかったら、どうしよう? 前向きに生きてゆけない。  
 冷たい感触が唇を走る。目を開くと、口紅が塗られていた。コットンで輪郭を丁寧に整えている。バンビさんはまた、すこし離れて、わたしを見た。今度は角度を変えて見る。手直しをする。また、離れて見る。もう一度、眉毛を引き直す。そういうことを何回か繰り返した後、やっと満足したのか、うなずくと、
 「できたわ」と言って、手に持っていたマスカラを置いた。
 「見たい?」わたしを見て、もったいぶるように言った。
 「見るの、怖いです」と正直に言った。
 「じゃ、やめとく?・・・このまま落としちゃう?」
 バンビさんはホント意地悪だ。でも、性格が悪いというより、こどもっぽいのだ。
 わたしの後ろに回り、回転椅子をドレッサーの鏡に向けた。
 「ごたいめーん!」
 わたしは咄嗟に俯いてしまい、「変身!」と心の中で叫んでから、意を決し顔を上げた。
 現実はすぐに脳には到達しなくて、目の網膜で戸惑うように泳いでいた。こどものときに描いた塗り絵を思い出した。モノクロだった顔に色が差して、表情豊かになっている。
 「ジーンセバーグふうにしてみました、加奈子さま」
 バンビさんが従者のように恭しく言った。「いかがでしょう?」
 ・・・ジーンセバーグ? 咄嗟に顔が浮かばなかった。あとで調べてわかったけど、ゴダールの映画に出ていたボーイッシュな女優だった。わたしはあんなに綺麗じゃないけれど。
 「自分じゃないみたいです」と正直に答えた。
 バンビさんはわたしの前髪を止めていたクリップを外し、ブラシと櫛を使って、横分けふうにヘアスタイルを整えた。ヘアスプレーをシューっとかけて固定した。
 「ちょっと待っててね」
 リビングを出ていった。しばらくたつと、服をいっぱい手に持って、戻ってきた。
 わたしを立たせて、次から次へとあてがう。
 「これがいいわ」と言って、幾何学模様がプリントされたワンピースを選んだ。見るからに昔のものだ。あとから、ジバンシーの高価なビンテージだと知った。
 「着てみて」
 わたしは服を受け取り、部屋を出ていこうとした。
 「・・・どこ行くの?」
 「着替えてきます」
 「ここでいいわよ」
 「・・・恥ずかしいです」
 まだ、バンビさんの前で肌を見せるにはテレがあった。それにバンビさんのグラマラスなプロポーションの前では気後れがする。
 「女同士なのに何を恥ずかしがってるの・・・これ、着るの、ちょっとコツがいるのよ。わたしがここで着させてあげる」
 仕方なくスウェットの上を脱いだ。上だけ脱いで、ワンピースをはおった後、下を脱げばいい。
 バンビさんが上からふわりと服をかぶせてくれた。袖口が狭く、両腕を慎重に通してから、背中の長いジッパーを上げる。シルエットを整える。
 「・・・ブラはギリ見えないわね。今度、これに合う可愛いの買ってあげるね。さ、下も脱いで」
 ワンピースは本来は膝丈のようだった。わたしは背があるので、ミニのようになった。
 「うん・・・これはこれでいいかも。脚が細いから、ちょっとツイッギーっぽいし・・・ちょっと待っててね」
 バンビさんはまた衣裳部屋へ行った。今度は帽子やハンドバッグやアクセサリーを持って、戻ってきた。
 わたしをもう一度、ドレッサーの前に座らせる。ヘアスプレーみたいなのを一つ選んで、カラカラと音を立てて振った。ポンチョのようなクロスを頭からかける。髪の生え際あたりで押さえているように言われた。ヘアスプレーを噴射する音。薬品臭。クロスを外すと、髪がボルドー色になっていた。カラースプレーだった。
 厚手の柄物のストッキングスを腿まで通す。チョイスした60年代ふうの大きなイアリングとカラフルなガラス玉の首飾りと大きめのリングブレスレットを装着。チープに見えるけど高そうなサングラスをかけて、おでこに乗せる。靴はわたしのサイズに合うものがなく、クラシカルなサンダルで代用する。踵がちょっとはみ出てしまった。
 バンビさんはわたしをカーテンの前に立たせて、上から下までゆっくり見る。ハンドバッグを持つように言われる。腕を折り曲げて肘の内側で持ってみて。
 着せ替え人形のようだった。虚像がまだ現実に追いつかない。
 バンビさんはそれから、わたしを部屋のあちこちに立たせて、記念撮影をした。ポージングや表情の指示をあれこれ受ける。してるうちにわたしもだんだん慣れてきた。スターになったようで楽しいってほどではないけれど、一幕の夢の世界に迷いこんだみたいだ。

 「どう、自分にすこしは自信がついた?」
 ソファで虚脱気味になって休んでると、バンビカメラマンがシャンパンが入ったグラスを片手にやってきて、ナンパ男のように笑った。
 「その服、すごく似合ってるよ。加奈子は細いけど、お尻がぷくって出てるからね。コケティッシュで、まるで別人みたい」
 「ありがとうございます。・・・楽しかったです」
 わたしは『職業体験』を終えた田舎の高校生みたいにお礼を述べた。「もう、この服、脱いだほうがよくないですか?」
 ずっと着てると皺になりそうだ。
 「あら、まだ本番はこれからよ。いまから外に行って、街の皆さんにも、可愛く変身したあなたを見せてくるのよ・・・はい、これ、地図」
 は?・・・何を言ってるんだ、このカメラマン。
 「青山2丁目に60年代ヴィンテージの専門店があるの。そこで、その服に合う靴を買ってらっしゃい。店の人にはもう電話しといた。代金は後払い。いますぐ行ってらっしゃい。ここから歩いて15分ぐらいかな」
 「・・・これ、着たまま、一人で行くんですか?」
 「そうよ。・・・一本道だから、道に迷うことはないと思うわ」
 「・・・いやです」
 「何で?」
 「・・・だって、恥ずかしいです」
 「だから、すごく似合ってて可愛いって言ってるでしょう。恥ずかしがる理由なんてどこにもないわ。・・・もしかしたら男の人にナンパされて、恋が芽生えちゃうかもよ」
 「・・・いやです、そういう軽薄なのもいやです」
 「行ってらっしゃい」
 ・・・泣きそうになった。引っ越してきたとき、ここでは絶対に泣かないって決めたのに。こんなつまらないことで泣きそうになるなんて思いもしなかった。
 「靴がないと外は歩けないのよ」
 「わたし、靴は要りません。外は歩かなくていいです」
 「行ってらっしゃい。・・・これは命令です」




      16



 バンビさんはたまに悪乗りし過ぎる。
 なんであのまま愉しい気分でお開きにできないのだろう?
 わたしをイジメて何が愉しいのだろう。
 わたし、何か怒らせるようなこと、した?
 根に暗いものがあるのかもしれない。
 こどもっぽい。
 これじゃ、罰ゲームだ。
 加奈子は表参道を青山通りへ向けて、てくてくと歩いていた。サンダルが小さいので歩きにくい。大きく開いた胸もとから風が入ってきて、そわそわ落ち着かない。歩くと、装身具がジャラジャラと音を立てる。ハンドバッグを持つ姿がきっと決まってない。背筋をしっかり伸ばして胸を張って歩きなさいとバンビさんから指導を受けた。そうすれば、だいたいの服装は似合うし、さまになる。
 言われるまでもなく、加奈子は気を張って歩いていた。往復30分の道のりだ。何か考え事をしながら歩いていれば、あっという間に着く。景色も目に入ってるようで全然入らない。いま、してることをいやだないやだなと思いながらしてると、時間がたつのが非常に長く感じる。
 道行く人や商店にいる人がじっとわたしを見る。でも、しつこく追ったりはしない。このぐらいの格好は見慣れた街の一部なんだろう。
 ミニスカートを履いてることも、個性的なお化粧をしてることも、次第に意識から遠のいていった。加奈子はバンビにどう仕返しをしてやろうかと考えていた。もちろん、考えるだけで、実際にはしません。考えるだけでいいのだ。考えるのは楽しいし、結論が出たときにはすっきりする。自分が何をどう思ってるかクリアになるし、これからどうすればよいかの指標にもなる。
 でも、仕返しの気の利いた方法はなかなか思い浮かばなかった。お茶にワサビを入れる、下着に蜘蛛を入れる・・・なんてことは次々と浮かぶ。しかし、こどもっぽい。バンビさんと同じ土俵で勝負してどうする?
 ・・・そんなことをつらつら考えて道を進んでたら、店の看板が遠くに見えてきた。もう、開き直ろう。映画スターのように颯爽とドアを開けて、店の中に入ってやろう。

 靴も店の人と相談して選んだし、履いてきたサンダルも袋に入れてもらったし、ミッション完了、もう一頑張り、帰ろうと思ってたら、
 イジメっ子バンビが突然、店のドアを開けて、現われた。
 え・・・どういうこと?
 わたしと同じようなテイストの服に着替えている。とてもハデでカラフルなペイズリー柄のワンピース。メイクもバタフライから、大人のベティちゃんみたいな目もとを濃く強調したものに変えている。目がとても大きい。
 「バンビさん、いらっしゃいませ」
 店員の声が1オクターブは撥ね上がった。きっと上客なんでしょう。
 わたしを見ると「どうしたの? そのおでこの絆創膏」と聞いた。
 「ごめんなさい。入口の段差で躓いて、顔をドアにぶつけちゃったんです」
 店の人が謝った。
 「わたしの不注意です」訂正した。
 「珍しいわね、加奈子が転ぶなんて」
 颯爽と入ろうなんて慣れないことをしたからだと思う。でも、それは口が裂けても言わない。
 「で、靴は決まった?」
 わたしは試足用のソファに座ったまま、両足を前に差し出した。銀のスパンコールのラインが控え目に入った、クリーム色の厚底のキュートなパンプスだ。履き心地もいい。
 「あら、素敵じゃない。サイズはピッタシ?」
 「はい、ジャストです」
 店員さんが代わりに答えた。外した値札を手にバンビさんに確認をとる。店でいちばん高いのを選んでやった。
 バンビさんはそれから店内を歩き、わたしの服に合うコートを選んで買ってくれた。チューリップの蕾のようなラインを描くオレンジ色のコート。これはとても可憐で気に入りました。
 「この子、店の新人さんですか?」
 店のお姉さんがバンビさんに聞いた。
 新人? わたし、女なんですけど。
 「そうよ、前途有望、期待のニューフェイスなの。あどけないエロスがそそるでしょ?」
 何で否定しない? やっぱり性格が悪い。
 「じゃ、ご飯でも食べに行く? それとも、ナンパされに街を歩く?」
 「・・・疲れました。ゆっくりお茶でも飲みたいです」
 「じゃ、原宿のパレフラに行きましょう」
 パレフラ? どこですか、それ? 
 わたし、この店の数軒前にあった喫茶店でいいんですけど。

 原宿は日曜とあって混んでいた。
 タクシーを使った。バンビさんが100メートル以上歩くところを見たことがない。
 『パレフランス』は竹下通りの終点にあった。舗道に面したオープンカフェの空いてる席を見つけて、座った。19年間生きてきて、過去最大の視線を浴びていた。いまも記録を更新中だ。バンビさんが隣にいるからだと思う。
 「いつもこんなですか?」
 わたしはやっと一息つけたのか、つけてないのかわからない、落ち着かなさの中で聞いた。
 「明るいときはまぁこんな感じ」
 バンビさんは事もなげに答えた。
 オシャレなモデルの女性のように見られてるのか、ニューハーフとバレてるのか・・・よくわからない。半々ぐらいだろうか?
 「今日はモノホンの女の子の加奈子が隣にいるから、8対2ぐらいじゃない?」
 一応、わたしを持ち上げる。
 「わたし、さっき、男と間違われたんですけど」
 「あれはわたしとセットでいたからよ」
 しばらくすると、潮が引くように視線は減った。
 都会は素晴らしいなぁと思う。許容範囲が広い。
 「でも、どうせジロジロ見られるんなら、綺麗なほうがいいと思わない? 中途半端にしてるとオカマって呼ばれるけど、すごく美しくなっちゃえば、どっちなんだろうって言われるわ。性別を超えちゃえばいいのよ」
 一理あるような気がする。バンビさんもいろいろ考えることがあったんだなぁと思う。
 アールグレーをストレートでわたしはしみじみと飲んだ。やっと一息つけた。
 結局、お腹が空いたので、屋内の席に移動して、夕食を食べることにした。陽はもう西に傾きはじめていて、屋外はすこし肌寒い。
 わたしは『オムレツのモンサンミシェル風』を頼んだ。モンサンミシェルがよくわからなかったけど、なんとなくオシャレで美味しそうだ。バンビさんは『エスカルゴのブルゴーニュ風』。ここではいつもそれを食べると言う。サラダもセットで頼んだ。
 「加奈子はどんな男がタイプなの?・・・例えば、この店の中にいる男から選べと言われたら、どの男にする?」
 わたしは目だけぐるっと動かした。射程内に見つからなかったので、灯りが瞬きはじめた外の景色を見る振りをして、左横から左後ろのエリアをチェックした。
 「・・・あそこで一人静かに本を読んでる人かな」
 わたしはバンビさんの目を左後方に促した。体格の良い、頭も良さげな、ビジネスマンふうの黒人が寡黙に読書をしている。
 「うそ?」
 「・・・うそです」
 「真面目に答えなさい」
 意地悪な魔女に対抗するには、ユーモアとウィットが必要です。
 「・・・いません。バンビさんはどの人ですか?」
 「・・・わたし? わたしはそう、加奈子かな?」
 「何度も言いますが、わたしは女です」
 「あそこにいる、チェックのジャケットを着た若い子、あの子はちょっといい感じかな」
 わたしはまた外の景色を見る振りをして、バンビさんの視線の先を追う。・・・うん、そこそこいい。
 「どう?」
 「いいと思います」
 「やっぱり、あの手か・・・加奈子、ああいう男が好きなんじゃないかって思ったんだ」
 誘導尋問だったか。
 「容姿に恵まれない女は美形が好きだものね」
 また、要らないことを言う。
 「でもなんだか楽しいわね、こういう話。60sファッションには恋の話がよく合うわ」
 まるで映画のワンシーンがどこからか撮られてるかのように、バンビさんは表情を作る。
 「バンビさんは彼氏はいないんですか?」
 「絶賛募集中」
 「たまに複数の素性もわからない男の人たちから電話がかかってきますけど」
 最近はわたしが家電を取っている。居留守も使えるし、親戚の女の子と同居してると嘘もつけるし、いろいろ都合がいいからだ。
 「あれはみんなお客さん。・・・もう3年ぐらい、いないかな」
 「意外です。とってもモテそうに見えますけど」
 性格は悪いですけど、と心の中で付け足した。
 「なんかねー、昔のように一途になれないのよね」
 バンビさんは遠くを見るような目になった。まだ映画の撮影は続いているようだ。「・・・心の奥が醒めちゃってる。恋してるのに頭がよく働くのよ。手慣れてしまってる。・・・加奈子にはまだわからないだろうな」
 ええ、わかりませんとも。まだ航海を始めたばかりだし。
 「運命の人がまだ現われてないのかもしれませんね」
 でも、とりあえず、撮影には協力します。こうなったら、助演女優賞を目指します。
 「運命の人? そんなの、本当にいるって信じてるの?」
 わかりません。ありそうな話にも思えるし、なさそうな話にも思える。思いつきで言ってみただけです。
 「・・・でも、いたりしてね。いま、この店のどこかに隠れてるかも」
 バンビさんは遠くを見ていた目をまた近くに戻した。
 揺れ動いてますね。恋をする女の心はいつも揺れ動いている。映画はそろそろ佳境に入るのでしょうか?
 



     17


 ご飯も食べ終わったし、これでやっと家に帰れると思ったら、甘かった。
 『ラフォーレ』にお買い物に行くと言う。向かいにも新しい商業ビルがオープンしたらしい。
 それとも、ナンパされに行く? 湾岸のディスコに行く?
 このバイタリティはどこから出てくるんだろう。わたしはとてもついてゆけない。バンビさんには申し訳ないけど、あまり楽しくない。美術館に行きたい。家で絵を描いていたい。ディスコはいやです。チャラチャラした男にナンパされるのはもっといやです。
 ・・・とは言えなかったので、ショッピングがいいですと言った。この格好でまた明るいところを人目を引いて歩くのかと思ったら、気が重くなったけど、またすぐに慣れるだろう。また何か関係のないことを考えながら歩こう。
 とりあえず、一緒に女子トイレへ行き、化粧を直してもらった。口紅を引き直してもらう。鏡を見ると、相変わらず、知らない人がいた。早く本当の自分に戻りたい。
 こんばんは、お元気ですか?・・・と鏡の人に聞いてみた。
 『ラフォーレ』は若い子たちでいっぱいだった。自分も若いのに距離を置いて見るのもおかしいけれど、距離を感じる。疎外されてるように感じる。同じ場所にいるのに、違うところを歩いているようだ。急に淋しくなる。目を閉じて再び開けたら、みんな消えていなくなってそうだ。でも、きっとすべてが消え失せた世界でも、バンビさんはいるような気がする。だって、美の化身だもの。魔女だもの。意地の悪い弱虫だもの。いつか、大きなバンビさんの絵を描くのが最近のわたしの夢だ。もし家を建てたら、壁一面を覆うようにその絵を飾ろう。毎日、その絵を見て過ごすのだ。毎日、バンビさんを見るのだ。現にいまも隣にいて、わたしの下着を選んでくれている。別に人に見せるわけじゃないからそんな装飾は要りませんと言うのだけれど、聞いてくれない。これからこの罰ゲームだか、変身トリップが恒例にならなければいいんだけど、そうなったら本当に自分がどこかに行っちゃいそうでいやだ。店を回り、バンビさんは気にいったものがあると手に取り、持ちきれなくなるとわたしに渡す。レジへ行って精算する。結局、わたしは付き人のようになっている。紙袋をいっぱい持たされて、バンビさんの後を追う。
 向かい側の商業ビルに移動する。オープンしたばかりで、バーゲンやいろいろな催し物をやっている。人でごった返している。お目当ての店が3階にあるらしく、混雑したエレベーターに乗りこむ。また、疎外感がやってきた。でも、自分で作り出してるのかと思う。わたしは基本この世界を認めてないのだ。もしかしたら、この世界がなくなっちゃえばいいと思ってるのかもしれない。
 お目当ての店の入場制限を見て、バンビさんもさすがに気がそがれたようだ。行列に並ぶタイプじゃない。「疲れたわ、帰りましょう」と言った。下りる階段を探してたら、後ろから声をかけられた。振り向くと、若いオシャレな男が2人立っていて「街のファッションリーダーみたいな企画なんですけど、写真を撮らせていただけませんか」と言われた。エスカレーター前の特設ブースを目で指した。読んだことがある有名な女性ファッション誌の広告が大きく躍っていた。わたしたちは簡易な背景が青の特設スペースに行き、写真を撮られた。バンビさんの指示に従い、ポーズをとった、一生懸命に笑顔を作った。そのときの写真はーー雑誌に掲載された写真の切り抜きは、いまもわたしの部屋の引き出しの奥に大切に保管されている。60sの女の子が2人、夢を抱えきれないようなハッピーな顔でキュートなポーズをとって微笑んでいる。

 やっとマンションに戻れて、たくさんの荷物を置き、ソファで一休みしたのも束の間、
 「加奈子、行くわよ」という声が玄関から聞こえた。
 「・・・どこへですか?」
 「六本木。ディスコに行きましょう」
 だからディスコはいやだって、さっき言ったじゃないですか・・・と言おうとして、心の中で言ったのだと思い出した。
 「お腹が痛い・・・」とわたしは思わず仮病を使った。こどものときによく使った手だ。施設はなんやかや責任問題を避けたがるので、古典的な手段でも有効なのだ。
 「じゃ、途中で本格的に痛くなったら、そのまま病院に連れてってあげる」
 魔女は本当に容赦がない。
 いやだぁーと心の中で叫んだ。声に出して本当に叫べばよかった。本当に叫んだら、どうにかなったかもしれない。
 引き立てられるようにタクシーに押しこまれ、夜の街を六本木へ向かった。
 そこから先の事はよく憶えてない。
 ラウンジでお酒を飲んだあたりから、記憶が飛んでいる。
 ビルのような建物だった。長い階段を昇った。大音響、めくるめくライト、フラッシュ、人いきれ・・・踊ったのも憶えている。どんなふうに踊ってたのかは、思い出すと恥ずかしくなりそうで、思い出したくない。







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