比留間久夫 HP

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HP2000(仮題) 1 ~  7


      1


 マリアさんが死んだという報せをわたしは疲れ果てたベッドの中で聞いた。
 電話はママからだった。いま、警察に行って確認してきたという。
 首吊りや練炭やリストカットや目に見えての自殺の形跡はなかったらしい。数日前から、飼っていた3匹の犬がうるさくて隣室から苦情が入り管理人がドアを開けたところ、炬燵の天板に顔を突っ伏す姿勢で亡くなっていたという。
 バッグに入っていた店の名刺からママに連絡があったみたいだ。
 「何か思い当たることはあるかい?」ママに聞かれた。
 きっと警察で同じことを聴かれ、もしかしたらわたしが何か知ってるかもと思い、電話してきたのだろう。
 「これといって特に何も・・・」わたしは答えた。
 特に、じゃないことならいっぱいある。それはママもわかっている。
 マリアさんはここ1週間ぐらい無断欠勤していた。珍しいことではない。いつものことだ。そろそろマネージャーのルビさんが様子を見に行くタイミングだった。
 無断欠勤は1万円の罰金だ。マリアさんは月給より罰金が多くなることがしばしばで、ママも手を焼いていた。それでも店に来ればチップとか指名料バックも入るし、マリアさんには特定の上客もついていたから、ママも大目に見ていた。
 マリアさんのホスト狂いは店でも有名だった。金をせしめることが基本のドライな人が多いこの世界で、金を貢ぐタイプはそう多くない。でも、中にはマリアさんのように「情にもっていかれる」ウェットなタイプの人もいる。もちろん、本人だって「バカなことをしてる」とわかっている。でも、どうにもならなかったんだと思う。
 わたしとは以前にショーで1か月間ペアを組んだことがあり、店の中では比較的話す仲だった。マリアさんの答えの出ない相談に辟易することも多かったけど、指名のお客さんの席にはいつも呼んでくれてヘルプ代もちゃんとくれたし、可愛がってくれた。
 ポツンと心ここに在らずみたいにボーッとしているマリアさんの姿が浮かぶ。誰か特定の男の人が現われれば、こんなことにはならなかったんじゃないかと思う。彼氏ができて、この世界をやめていく人はかなりいる。戻ってくるパターンも恒例だけど、古典的な幸福観の人も多いのだ。
 わたしは昨夜、マリアさんの夢を見たことをぼんやり思い出していた。マリアさんは「すぐ返すから、お金を貸して」と言った。わたしは現実世界と同じく、首を振って断った。「ママから従業員同士のお金の貸し借りはダメだって言われてるから」実際にママにもそう言われてるし、ママをダシに使うのもいつものことだ。余計なとばっちりを食いたくない。
 「・・・何かわたし、手伝うことありますか?」わたしはママに聞いた。
 「いま、親に連絡を取ってるみたいだから、その結果待ちだね」
 マリアさんは郷里は福岡だと言っていた。親や親族は引き取りに来てくれるのだろうか?
 「あと・・・店の子にはまだ言っちゃダメだよ。刑事さんにも言われてるし」
 死因がはっきり判るまでは、ということだろう。
 ママが電話を切った音を確認し、わたしも受話器を戻した。
 わたしはレッスン漬けの日々で、くたびれていた。歌のレッスン、踊りのレッスン、最近はタップダンスのレッスンも受けている。寝る時間を削ってでもやるんだと勇ましく言いたいところだけど、睡眠が足りないと顔や脚がむくむので、無理にでも集中して寝るようにしていた。
 うとうとと再び眠りに落ちていく境界で、マリアさんにあのときお金を貸してあげればよかったかなと後悔した。・・・でも、やっぱり貸していなかっただろう。
 目が覚めたら、そのときちゃんとマリアさんのことを考えようと思った。
 遅くはないよね。もう死んじゃったのだから。




      2


 楽井未来(らくい みき)は右奥のテーブルで、チーム主任の黒田と、クラブ『人工の森』のショータイムを観ていた。七色のライトやストロボがまばゆく舞台を照らす。大音響の店内。耳がどうにかなりそうだ。
 黒田は愉しそうだ。チップが経費で下りるなら、持たせてやりたかった。
 未来はあいもかわらずだなと思って観ていたが、誰もわたしに気づく者はいない。メンツも8年前とは半数以上変わった。入れ替わりが激しい業界だ。
 ショーが終わり、落とされていた客席の照明がもとに戻り、指名したニューハーフがやっとテーブルにやってきた。さっきまではヘルプの新人の子が2人付いていた。
 「遅くなって、ごめんなさい」
 ニューハーフは落ち着いた物腰で会釈をした。ショーの衣裳をつけたままだ。
 いまごろ、楽屋は着替えでごったがえしている。着替えは後回し、とりあえず指名客のところへ急ぐ。
 「はじめましてですよね? どなたかのご紹介ですか?」
 ニューハーフは言いながら、わたしたちのグラスを回収し、レミーのキャップを空けながら「水割りでよろしいですか?」と聞いた。わたしたちがうなずくと、慣れた手つきで水割りを作り、ナプキンでグラスの雫をきれいに拭き取ってから、わたしたちの前に優雅に置いた。
 ボトルは奮発してレミーにした。ニューハーフの対応が違ってくる。
 「今日は彼女に連れられてきたんです」
 黒田は横を向いてわたしを指した。半裸のニューハーフにじっと見つめられて、緊張しているみたいだ。
 ニューハーフは視線をわたしに移し、返事を待っている。ホステスには見えないけど、と考えてるみたい。もしかしたら勘が鋭いから「同業者?」と思ってるのかもしれない。
 「8年ぐらい前に来たことがありまして。そのとき、新人だったバンビさんと意気投合して、まだいるかなと思って指名したんです」
 「あら・・・うそ。うれしーい!」
 ニューハーフはやっと見覚えのある、昔ながらの人懐っこい顔を覗かせた。8年ぶりに会いに来たと言われ、嬉しくない人間はいないだろう。でも、マジ、キレイになった。
 「どう、わたし、イイ女になりました?」
 ニューハーフは立ち上がって、シナを作った。黒田の前で片脚を『くの字』型に上げて、サービス。
 わたしが「うん」とうなずいたら、きっと「ありがとう。おねえさんもすごくイイ女になったわよ。・・・前を全然憶えてないけど」などとオチをつけて笑わせてくれるんだろう。
 実際、近いことを言われて、黒田は楽しそうに笑っていた。
 はい、わたしも笑わせていただきます。

 未来は広告会社の人間であると名刺を渡し、自己紹介をした。
 ニューハーフを起用するプロジェクトを現在企画中で、もしその案が始動となった暁にはバンビさんにも是非ご協力を仰ぎたい。今日は上司である黒田にバンビさんを見せる目的で来ました。ほかの店も回っています。
 「どんなプロジェクトなんですか?」
 「いいお話だと思います。動き出しましたら、改めて、ご連絡させていただきます。もしよろしければ、お電話番号をいただけますか?」




       3


 『マリアを送る会』が新宿の『VIVA!』で催された。
 『VIVA!』はマリアさんがいちばん長く勤めていた店だ。
 3匹の犬の引き取り先捜し、部屋の後片付け、宝石や衣装などを換金し借金返済、形見分け・・・『VIVA!』のママが全部やったらしい。
 亡骸は親が上京し、火葬にし、郷里に帰った。
 死因は心不全だったらしい。マリアさんはここ半年、精神科に通院してて、そこで処方された強い薬と、お酒の飲み過ぎが肉体に突発的なダメージを与えたのではないか。強い睡眠薬も常用していたが、自殺ではなかったらしい。
 『送る会』は店の閉店後に行われた。
 バンビがすこし遅れて到着すると、店にはもう20人ぐらい集まっていた。
 ステージ中央にマリアさん愛用のヴィトンのバニティケースが置かれ、その上に遺影が飾られていた。華やかなショーの衣裳をつけてる写真で、顔はまだふっくらとし表情にも明るさがあった。5年ぐらい前の写真だろうか。
 バニティケースの周りにはたくさんの色とりどりの花がばらまかれ、ケースの前には大きな水鉢が置かれ、マリアさんが好きだったという白い百合の花が活けられていた。ヘネシーのボトルとグラス、マルボロが供えられ、それらを縁取るように使いかけの香水瓶が並べられていた。天井からはバレリーナを照らすような白いスポットが祭壇に落ちていた。
 水鉢にお酒を注いでもいいし、香水をかけてもいい趣向だと、一足早く来ていたラララに教えられた。ママは参列者に簡単な挨拶をした後、思い思いにマリアを偲びましょうと言ったらしい。客席の照明は落とされていて、音楽も静かなピアノ曲が優しく悼むように流れていた。
 バンビはママから預かってきた香典と自分の香典を祭壇の前に置くと、シャネルの5番を選んで手に取り、水鉢にシュッと一噴きした。いろんな香りが低くアラベスクを描くようにたゆたっている。遺影をもう一度見て、掌を合わせ、何か言おうとしたが、いまだにマリアさんが死んだという実感がなくて、慰霊の言葉が出てこなかった。
 亡骸でもあれば、死を信じるしかないだろう。でも、マリアさんの死顔はない。それはどんな死顔だったのだろうか? ちゃんとお化粧してもらったんだろうか?
 「安らかにお眠りください」バンビは言って、その場を退いた。
 『VIVA!』のママのところに行き、挨拶をした。ラララから聞いていたが、面倒見の良さそうな優しそうな人だった。『人工の森』でのマリアさんの様子を聞かれたから話したけど、その表情を明るくするような話題はなかった。
 バンビはラララが座っている端のテーブルに行った。「水割り? お茶?」と聞かれたので、お茶をもらった。ラララはこの店にいたことがあるから、自分の家のようだ。
 ラララは6年前に古巣新宿に戻っていた。『人工の森』に在籍してたのは2年弱。でも、いまでも、原宿や青山に来るときは連絡をしてきて会って一緒に買い物とかしている。『人工の森』時代はお互い新人でライバルだったが、いまでは戦友のようなものだ。
 「なんだかなーーって感じよね」
 ラララは言った。「いまにもそこのドアを開けて、おはようございますって入ってきそう」
 「うん、実感ないよね。もともと現実感もない人だったけど」
 「どんな感じだったの?」
 「最近は店にもほとんど出てこなくて。正直、よくわからない」
 「新宿から出ればって勧めたの、わたしなんだよね。ねえさん、また歌舞伎町のホストにいいようにされてたから」
 「それ、聞いた。新宿を離れて、心機一転、一からやり直しますからよろしくお願いしますってママに言ってたみたい。でも、マリアさんの場合、ハワイぐらいまで行かないとダメだったよね」
 その後も参列者は途切れなかった。マリアさんがハマってたホストも来るんだろうか。職場、新宿だし。・・・来るわけないか。
 ラララともう一度、マリアさんのところへ行って、掌を合わせた。バンビはさっき、頭をよぎったことを思い出した。
 「・・・マリアさん、死に化粧はしてもらったのかな?」
 「ママがしてあげたみたい。警察に頼みこんで、上京した親も説得して。警察病院の安置室で、お坊さんが来る前に」
 「・・・よかった」
 「そこは大事だよね。自分でもそうしてほしいもの。できたら、自分でやりたいぐらい」
 「ラララだったら、やりかねないよね」
 バンビはラララを見て、笑った。
 2人はもう一度『VIVA!』のママのところへ戻って、深く一礼した。


 「それでどーなの、最近は?」
 ラララはメニューを見ながら、聞く。
 近くの夜間営業している喫茶店に来ていた。
 「お疲れモードMAX」
 バンビは答えた。
 「聞けば、ナンバー1の座から陥落したって話ですけど」
 メニューをバンビに渡し、タバコを取り出す。
 「もうどうでもいいの、空しいわ」
 「いま、何位ぐらいなの?」
 「5位か6位ぐらいかな・・・同伴日以外は無理してお客さん呼ばなくなったし」
 「すこしお痩せになった?」
 「最近、ハードスケジュールなの。調子に乗って、レッスンを入れ過ぎた」
 「ダンス?」
 「うん。それにタップ、バレエ、ボイトレも続けてる」
 「昔から踊るの、大好きだもんね」
 「うん。・・・ここだけの話、もっと本格的なショーができる店に移りたいなって考えてるんだ。同業でも大阪にあると聞くし、女の子の店でもいいし」
 「『赤坂ブロードウェイ』とか?」
 「うん。あそこのオーディションはかなり難しそうだけど・・・でも、行けたら最高」
 「で、毎日、厳しいレッスンに耐えてるってわけですね」
 「そう。・・・がんばってます」
 バンビもラララと同じクラブサンドイッチを頼むことにした。違う種類を頼んで、いつものようにシェアしよう。
 「ララちゃんはどうなの?」
 「ララちゃんは楽しいがいちばんだから、いまのままで満足。みんな、優しいし、あったかいし、お酒は美味しいし」
 ラララが『人工の森』を辞めたのは、冷たい殺伐とした人間関係に耐えられなくなったからだ。売り上げ高競争、完全指名制、見栄とカネが渦巻く疲弊的な世界。まるで小さな戦場で働いてるみたいだった。
 ラララは2年前に『VIVA!』から、同じ新宿にある『虜』に移った。『VIVA!』も楽しい店なんだけど、ママがちょっと私生活にも干渉し過ぎで、うざいときがあったそうだ。
 「エバさんは元気にしてる?」
 「元気だよ。最近は落ち着いてる」
 「わたし、最初に聞いたとき、マリアさんじゃなく、エバさんだと勘違いしちゃったわ。どっちかとゆーと・・・そうでしょ」
 「うん。・・・でも、エバさんは不安定という名の安定だから。不安定が板に付くと蒲鉾みたいにしっかりしてくるんじゃない? 近ごろ、見てて、そう思う。あの人は意外にしぶといって」
 ラララと話してると楽しい。齢も近いし、裏表がないから本音で話せる。打算的なタイプでもないし、スレてるところもない。
 違うところは、わたしはドライな砂漠でもなんとなく生きていられるけど、ラララは緑豊かなオアシスがないと身も心もすぐに干上がっちゃうってとこかな。




      4


 エバさんが珍しく明るいナンバーを歌っている。
 あなたに抱かれてわたしは蝶になる、と指をヒラヒラさせて、サンバのステップを踏みながら楽しそうに歌っている。
 エバさんはこの世の中に新しい歌が次から次へと生まれてることを知らないみたいだ。歌うのは昭和の懐メロか、昔の洋楽。彼女がこどものとき、10代のときに流れていた歌。まるでそこで世界の歌が終わってしまったかのようだ。
 もちろん、懐メロは年配のお客さんにウケがいい。エバさんもそこはチャンと計算してのことだろう。
 今日は、来月に店で歌う歌の練習だ。
 ショーとショーの合間、生ピアノに合わせて、ニューハーフが歌を披露する。
 練習は、毎月、月末の閉店後に行われる。あらかじめ歌いたいナンバーをピアノの先生に伝えておく。2分程度にピアノアレンジしてくれる。
 エバさんは振りをつけてノリノリで歌っている。
 新しい恋人でもできたのかな?
 ・・・と思って聴いてたら「恋は心も命も縛り、死んでゆくのよ、蝶々のままで ♪」とか歌っている。やっぱり、いつもと同じ哀しい恋の歌なのね。ホント、報われない恋の歌が好きだなぁ。
 今日、残っているのはバンビ、美の里さん、ローラさん、そしてエバさんの4人だ。ママも客席から怖い目でみんなの歌をチェックしている。
 同じ歌をずっと歌っている人もいる。好きな歌手の歌をいろいろ歌っている人もいる。最新のヒット曲を好んで歌っている人もいる。
 エバさんはなんで報われない哀しい恋の歌ばかり歌ってるんだろう?
 悲劇のヒロインに酔ってる?・・・ちょっと違う気がする。もうすこし切羽詰まったものがエバさんにはある。エバさんはよくボイトレの先生が教えるような、歌の世界を理解し、それを表現して聴衆に伝える、なんてことはたぶん考えてない。自分の世界に浸りきって歌っている。歌っていくことで、だんだん純度が高まり、無色透明に結晶化していくガラスのようだ。
 伝えようとか表現しようとか、不純な厭らしい思いがないから、不意に心をつかむ。引きこまれる。それはなんていうか、とてもキレイな世界だ。生温かい涙ではなく、涙が凍って光を放っている感じ。
 哀しい恋をたくさん経験すれば、それが自分の糧となり、エバさんのような自然に心を揺り動かす歌を歌えるようになるのだろうか?
 でも、わたしには無理だなぁとバンビは思う。距離感がうまく取れない。歌っているうちに哀しい記憶がいろいろ込み上げてきて歌えなくなりそうだ。泣いてしまいそう。泣いている姿で哀しさを伝えるなんて、こどもにだってできる。
 バンビの番がやってきた。
 終わったらどこかへ行くのか、みんな帰らないで客席で待っている。
 ピアノの先生が静かに『サントワマミー』の前奏を弾きはじめた。
 先月まで越路吹雪はアンナさんの十八番で、ほかの人は歌うのが実質禁止だった。でも、アンナさんが2か月前に店を辞めたので、解禁となっていたのだ。
 バンビはふぅーっと大きく深呼吸をした。家で練習してきた通り、力を抜いて歌おう。
 歌い出すとすぐさま「わぁ、ずるーい。バンビ、それ歌うの」とエバさんが客席で叫んだ。バンビは目で「早い者勝ちよ」と会釈を送り、越路吹雪のようにおしゃれに一幕のドラマのように歌えたらと思った。
 『サントワマミー』は何人かの歌手が歌っているが、やっぱり越路吹雪が断トツでいい。別れの哀しい歌なのに、演歌にならないのは、主人公に「情に崩れ落ちていく寸前でとどまる」プライドと品位があるからだ。情けない自分の姿を人前に晒したりしない。どんなに辛くても、エレガントに振舞うのだ。

 「じゃ、『キノコ狩り』に行こうか?」とママ。
 「行く、行く!」とエバさん。
 「・・・こんな夜中に? 遭難しても知らないよ」
 どこに行くのか知ってるくせに、ピアノの先生がすっとぼけた風情で言う。
 「美の里とローラはどうする?」
 先生の相手をしてるといつまでもバカ話が終わらないので、ママはスルーして、2人に聞く。
 夜中の3時。まだ、外は真っ暗だ。
 でも、灯りが煌煌とついている街もある。
 「どうしようかな? ローラは?」と美の里さん。
 「ご同伴いたします」とローラさんは即答。
 「バビちゃんは?」
 「行かないよ」ママが代わりに答える。「バンビは2丁目には行かないから」
 「あら、どーして?」
 「若い男には興味がないんです」
 バンビはいつもの告白調の言い訳を口にする。
 「若いキノコでしょ?」と懲りずにチャチャを入れてくるピアノの先生。
 「じゃ、爺いが好きなの?」
 美の里さんはまだ店に入ったばかりで、バンビやみんなのことを知らない。
 「オジサンあたりからです」とバンビ。
 「・・・愛したいじゃなく、愛されたい女なのね」とローラさん。
 「若い子は金を持ってないからだよ」とママ。
 「バンビ、行きましょうよ」とエバさん。「どうせ、ママのおごりよ。冷やかしでもいーじゃない?」
 エバさんは店でキノコを買うことはないそうだ、ママが言ってた。若い男の子たちから、やんや喝采や羨望のため息をもらうことが楽しいようだ。
 「それでその後さ、カラオケ行って、ピーナッツでも歌おうよ」
 この前、お客さんのリクエストで、2人でピーナッツの『恋のフーガ』を歌った。振り付けも合ってなかったし、歌詞もうろ覚えなところがあったので、練習も兼ねて、あの続きをやろうってことだろう。
 頑なな気持ちがちょっとぐらつく。
 エバさんと一緒に歌って、踊るのは愉しい。
 たまには行こうかな・・・
 でも、人のうわさ話はあっという間に広がる。特にあの街は狭い。
 「・・・今日は生理だから、やっぱりやめとく」
 ホント、付き合いが悪い女ねって目がバンビに注がれる。




      5


 ビルから舗道に出たところで「バンビさんですか?」と声をかけられた。
 午前3時。仕事を終えて、タクシーを拾って、マンションに帰ろうとしてるところ。
 見ると、若い女の子だった。背が高い。
 何だろう? ひどく場違いだ。客にしては身なりが・・・OLっぽくもなければ、水商売っぽくもない。
 「はじめまして、河合加奈子といいます」
 女の子は丁寧にお辞儀をした。「美大生です。お話しがあって、待っていました」
 声が上ずっている。ひどく緊張している。
 「なあに?」
 「この前、テレビを観ました」
 ゴールデンで放映された、ニューハーフ特番のことを言ってるのだろうか? わたしはショータイムが紹介された。
 やおい系のファンかな?
 「怖くなるほど、美しかったです。・・・でも、自分だったら、あそこはもっとこうする、こう表現するってところがいっぱいありました。わたし、バンビさんの美しさをもっともっと世に知らしめたいんです」
 女の子は息せききって一気に言うと、肩からぶら下げた大きなバッグから、スケッチブックを取り出した。
 「口で言っても伝わりにくいと思うので、絵コンテを描いて持ってきました。見ていただけませんか?」
 女の子は卒業証書を受け取るように頭を下げてスケッチブックを差し出した。
 仕事帰りの同僚たちが「何事?」って顔でこちらを見ている。
 バンビは受け取ると、バッグを小脇に挟んで、ペラペラとページを捲った。
 「これから朝食を食べに行くけど、じゃ、一緒に来る?」

 河合加奈子は19歳で、東京芸大の先端芸術表現科に通っている。
 東京八王子のアパートに4月の入学から友達と住んでいるが、彼女が最近男をちょくちょく連れこむので、現在は友達のところやネットカフェを転々としている。
 バンビのことは2年ぐらい前からテレビや雑誌で知っている。同級生の子がアイドルに熱を上げるように、わたしもバンビさんが大好きである。いま、本物を目の前にして、ひどく緊張している。心臓が口から出そうです。食事も喉を通りません・・・
 ですから、食事はいいですと自己紹介をした。
 「親は心配してないの?」
 バンビはあつあつのマルゲリータを頬張りながら聞いた。グラスワインを一口飲む。一緒に食べない? と女の子にもう一度、勧めた。
 仕事帰りによく立ち寄る、青山の深夜営業のイタリアンレストランに来ていた。
 「わたし・・・養護施設出身なんです。父親はいますが、遠くにいるので、問題ありません」
 「・・・養護施設? いつから?」
 「もうちっちゃなときからです」
 「東京?」
 「はい、都下の山奥ですけど」
 「大学に入ったんで、そこを出たんだ?」
 「はい、高校を卒業したら出る規則なんです」
 「友達は? ・・・大学の友達?」
 「いいえ、同じ施設の出身です。彼女は働いてます。お金がいろいろかかるのと心細いので一緒に暮らそうって話になったんです」
 「・・・で、施設を出て、締め付け弱くなって、ちょっと乱れはじめてるんだ?」
 「寂しがり屋なので。根は悪い子じゃないです」
 「どうしてニューハーフが好きなの? やおい系?」
 「ニューハーフさんみんなが好きなわけではないです。バンビさんが好きなんです」
 「・・・どうして?」
 「美しいからです。バンビさんはいろんな意味で美しいです」
 「・・・どう、実物を前にして?」話に乗っかってみた。
 「感激しています。夢みたいです」
 バンビは十代の女の子に真面目な顔で美しいと言われ、すこし当惑していた。店では客からお約束事のように毎日言われてるし、自分でも自画自賛営業トークは全開だ。
 これは熱狂的なファンというものだろうか? 若いときはさまざまなものが自分を映す鏡になるというけど、この子はわたしにいったい何を見ているのだろうか? 
 「それで、今日はこれからどうするの?」
 結局、一人で全部食べてしまった。朝から粉ものを摂り過ぎだ。走って帰ろうか。
 「久しぶりに八王子に戻ろうかなと思っています。荷物もいくつか取りに行かなきゃならないので」
 女の子はやっとすこし緊張がほぐれたのか、氷が融けて薄くなってしまったオレンジジュースをストローで二口三口飲んだ。
 「今日は貴重な時間を本当にありがとうございました」
 あらためてバンビを見て、丁寧に一礼した。
 「うちに来る?」
 「・・・?」
 「スケッチブックの話もあるし」
 「え・・・関心を持っていただけたんですか?」
 バンビはテーブルの端に置いてあったスケッチブックをもう一度手に取り、パラパラとめくった。
 「・・・面白いとは思っています」
 「ありがとうございます! 嬉しいです。・・・全然ダメなのかなって思ってました」
 「どうする、来る?」
 「それはもちろん行きたいです。バンビさんの家に行けるなんてホント夢みたいです。・・・本当にいいんですか?」
 「いいわよ。こっから30分ぐらい走って帰るけどね」
 「はい、だいじょうぶです。走るのは得意です」
 女の子は嬉しそうだった。礼儀正しいし、物事の判断がしっかりできる子という印象だった。
 女の子はトイレへ行くと言って席を立った。
 すこし遅れてバンビも後を追った。婦人トイレのドアを開けると、女の子は洗面台で手を洗っていた。
 「ちょっと一つだけ確認させてね」
 バンビは言って、ジーンズをはいた女の子の股間に手を伸ばした。そのまま指を這わせる。
 「・・・ないわね。本当に女の子なのね」





      6


 走っては帰らなかった。
 朝から糖質を摂り過ぎたのでカロリーを消費しなきゃという言い訳だったらしい。
 タクシーで10分ぐらいで着いた。マンションは表参道のどこかをすこし入ったところにあった。どこをどう通って来たのかわからない。夜中の都会は同じところをぐるぐる回ってるように思える。原宿なら何度か遊びに来たことがある。
 低層の瀟洒なマンションだった。バンビさんの部屋はエントランスを抜けて、1階の左の奥まったところにあった。ドアを開けると、明かりが点けっぱなしだった。防犯と防ケガを兼ねてるらしい。何度か酔っぱらって帰ってきて、玄関の框に足を引っかけ痛い目にあったそうだ。
 中に入ると、とてもいい匂いがした。禁断の園に足を踏み入れたようだった。
 廊下を抜けたところにある部屋に案内された。左の壁に沿ってL字型のキャメルの革のソファ、ステンドガラスをあしらったセンターテーブルがある。その横にはアンティークの大きなドレッサー。正面にはAVボード、大画面の液晶テレビ。左側は窓だろうか、花の刺繍がしてある古めかしい若草色のカーテンが引かれている。
 バンビさんはそのカーテンを引き、内側のレースのカーテンだけにし、外の光を部屋に入れた。夜が明けかかっていた。窓の外にはぼんやり木立が見えた。
 「いきなり幻滅させて悪いけど、化けの皮を剥がさせてもらうわ」
 バンビさんは目にも鮮やかなスカーレットのミニドレスを脱ぎ、下着姿になると、美容院のクロスのようなものを首に引っかけ、ドレッサーの前に座った。髪をヘアバンドで束ね、化粧を落としはじめた。
 「暇だったら、家中を探検してきてもいいわよ」
 窓の右側にはスタジオにあるような大きな鏡が設置してある。天井は折上天井で、内装にはモールディングやアールがオシャレにあしらわれていた。レトロモダンな照明器具、調度品。ダイニングにはパリのカフェで見るようなオーバルのテーブルセットが置かれ、その奥は台所につながってるのだろうか?
 加奈子はバンビが出してくれたミネラルウォーターを一口飲んだ。
 「一つ、聞いていいですか?」
 気になっていたことを聞いた。
 「一つなら」
 バンビさんは鏡を見ながら、目のあたりを入念にケアしている。
 「わたし、男の子に見えたんでしょうか?」
 バンビさんはすこし間を置き、笑い出した。もうすっかりそのことを忘れてたみたいな感じだった。 
 「・・・ああ、あれ。ごめん、別に深い意味はないのよ」
 バンビさんは一頻り笑うと、また、お肌のケアに戻った。コットンを目の上から押し当てている。
 「ほら、加奈子ちゃん、すらっとしててオッパイ見当たらないし、ルックスもちょっと少年っぽいし。もしかしたらもしかしてと思って、念のため、確認させてもらったの。・・・傷ついた?」
 「・・・ビックリしました」
 「わたし、男を部屋に入れるの、厳禁にしてるの。だから」
 バンビさんはコットンをゴミ箱に放り捨てて、加奈子のほうを見て笑った。
 「もしかして、あんなとこ、さわられたの、はじめて?」
 「・・・はじめてです」
 「バージンなんだ?」
 「はい・・・ダメですか?」
 「ダメじゃないわよ。本当に好きな人ができるまで大切にとっておきなさい」
 完全にバカにされている。
 スッピンになったバンビさんは、あどけない女の子のようだった。
 年齢は25歳と雑誌で紹介されていたが、本当は何歳なんだろう? ためしに聞いてみた。
 「25です」と即答。
 お腹を鳴らしたわたしのために、身体に良さそうなお菓子やカステラをテーブルに用意してくれた。
 「なんで? 老けて見える?」
 「逆です」
 「あら、そう・・・ありがとう。わたし、もともと童顔なのよ」
 バンビさんはラフな部屋着に着替えてきた。といっても素材はベロアの、シックな膝丈の萌黄色のベビードール。その上にセットもののゆったりとした上物を羽織っている。
 ブラは外している。たわわな胸の稜線が覗いている。ぷっくりしたお尻にショーツのラインがうっすら透けている。本当、女性みたいな体付きだ。それも抜群にスタイルがいい。
 「どう、スッピンでも美しい?」
 バンビさんは顎に手をやって上目遣いのポーズを取って、わたしに聞いた。
 「はい、なんだか深いです。美の基準がとても深い場所にあります」




      7


 河合加奈子の提案は要約すると以下の3つだった。
 ①映像を使用する
 ②装置を使用する
 ③①と②の使用によって、演出構成も変わる

 これらはバンビ自身がショーでやりたいと思っていたことでもあった。
 芸術性がある、もっと高いレベルのショーがやりたいのだ。そのためにダンスや歌のレッスンにもがんばって通っている。
 でも『人工の森』では難しいし、必要ないとママに言われた。設備投資がバカにならないし、それにここは『芸術劇場』ではありません。お酒の席で小難しい芸術を鑑賞させてどうするの。お客さんが求めてるのはオッパイや非日常や乱痴気騒ぎの憂さ晴らしで、腕を組ませて頭をうならせることではない。
 ママが言ってることもよくわかる。でも、加奈子が言ったように、中にはこれまでと違う新しいものを観たいお客さんもいるはずだ。そこに照準を合わせてやるべきです。自分から山を下りてはダメです。頂上を目指せば、ついてくる人もいるし、新しく拡がる景色に胸をときめかしてくれるお客さんも多いはずです。
 加奈子とはあの日、このことについて何時間も話した。結局、加奈子が帰ったのはお昼を回ったころだった。
 バンビさんにはもっと多くのことを表現できるポテンシャルがあります。いまのレベルで留まってしまうのはもったいないです。

 バンビは大きな鏡の前に立って、フラメンコの練習を再開した。
 フローリングの床に防音シートを二枚重ねしてある。部屋は1階の角部屋で、隣地は住居ではなく道路なので、近隣から苦情がくることはない。
 フラメンコは腰の動きが特に難しい。どうしても、すっと元の位置に戻してしまう。腰を振るのではなく、重心を移す。戻すときは遅れてふわっと回すように戻す。お腹を支点に骨盤を動かし、体重を左右にゆっくり移動させる要領だと先生は言っていた。その教えを思い出し、もう一度トライする。世界にはいろんな踊りがあるんだなぁとあらためて思う。そしてその一つ一つに特徴があり、魅力があり、会得するのは難しい。その踊りに合った骨格とかプロポーションとか先天的なものもある。
 電話が鳴っていた。バンビは踊りを中断し、電話に出た。
 この前、店に来た広告代理店の女性からだった。
 ・・・ああ、そういえば、うっかり癖があるから、当日、確認の電話を一本入れてくださいと頼んでおいたのだ。今日の午後7時に六本木で会う約束だ。軽い食事が取れる店を予約してくれてるらしい。自分はその後、店に出勤する。
 時計を見ると、あと、2時間半。そろそろ用意を始めたほうがいいだろう。







 

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