比留間久夫 HP

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HP2000(仮題)18 ~ 21



     18


 立川駅1番線ホーム中央の階段下でゆかりと待ち合わせている。
 こっちに来るのは2か月ぶりだ。八王子のアパートを出て以来だ。
 ゆかりはすでに来て、待っていた。MAXみたいな恰好をしている。大人っぽくなったなぁと思う。まわりの変化の速さについてゆけない。
 そのまま、ホームに停車していた五日市線直通の電車に乗った。
 「加奈子、元気にしてたー?」
 ゆかりは抱き着くように近寄ってきた。言葉と体温に違いがないのがゆかりの愛すべきところだ。
 電車は空いていた。昔のように端っこの席に座った。
 「・・・ゴメンね、ホント、追い出しちゃったみたいで」
 もういいよって言ってるのに、また謝ってきた。ずっと気にしてるんだろう。
 「いいのいいの、遅かれ早かれ今かれよ」
 「・・・なに、それ? 新しいカレー?」
 「ううん」わたしは首を振った。やっぱ、わからなかったか。「遅かれ早かれこうなってたってこと。最後の『今かれ』はわたしがいま咄嗟に思いついたオチ。・・・それでいまは彼氏がいるってこと」
 「・・・なるへそ」
 「ゆかりは女と暮らして幸せになれるようなタイプじゃない。男の人を必要としてるんだと思う。昔からそうだったもん」
 ゆかりに付き合わされて、よく花火大会や他校の文化祭に行った。そこにはいつも男たちがいた。甘えるのが上手だなぁっていつも見ていた。男の子たちの中にすーっと入っていく。門限11時に遅れないように駅から長い道のりをよく走ったっけ。いま、その駅に向かっている。
 「それでどうなの、うまくいってる?」
 いまは完全に一緒に暮らしてるらしい。電話で言ってた。
 「うん。家賃も半分出してくれてる」
 「良かった。心配してたんだ」
 「テレビや冷蔵庫もそのうち半分切って返すから」
 「いいのいいの、必要ないから」
 「加奈子はどーなってるの? ちょっとわたし、驚いてるけど」
 「何を?」
 「だって、メイクしてるじゃん」
 「ああ、これ」わたしは笑った。「でも、ベースだけだよ」
 「彼・・・できたの?」
 化粧すると、男と直結。ゆかりらしい。
 「・・・できないよ。お姉さんと汚れなき2人暮らし」
 「ニューハーフさんとの生活ってどんな感じなの? ヤバくないの?」
 「根は優しい魔女のところで働いてる住込みの家政婦って感じ」
 「夜の世界に引き摺りこまれたりしないの?」
 「・・・ないよ。だってわたし、女だもん」
 「ドラマで見るような危ない人たちとつながってるとか?」
 「ないない、ないと思う。心配してくれてありがとう」
 「ふーん・・・でも、ビックリ。加奈子がそんな生活をしてるなんて」
 地味だったものね。自分でもビックリしてます。
 「今度、タカシと遊びに行ってもいい?」
 「・・・いまはまだダメなの。わたし一人でも迷惑をかけてる状態だから」
 「バイトも続けてるの?」
 「うん、そこは継続」
 近況報告をしあってるうちに電車は『あきるの駅』に着いた。『小百合園』はここから20分ほど歩いた山の中腹にある。
 「どうする、歩いてく?」わたしは聞いた。
 「かったるいから、リッチにバスで行こうよ。・・・ちょうど来てるし」
 バスターミナルに小百合園方面行きのバスが停まっていた。わたしたちは急いだ。
 居たころは節約してよく歩いた。本数もすくなかったし。
 バスには卒園生らしき人たちが何人か乗っていた。知っている上級生の顔もある。目が合ったので、軽く会釈をした。向こうも会釈を返す。卒園するとみんな急に大人びる。団体生活から一人の生活へ急に背中を押され、大きな空を渡っていかなければならない緊張感からだろう。
 『小百合園』へ行くのは卒園後はじめてだ。帰りたいような、帰りたくないような・・・自分の気持ちがよくわからない。でも、今日は行くという選択肢しかない。サユリ園長先生の誕生日パーティーだからだ。今年で75歳になるらしい。
 職員さんにはみんなそれぞれ癖があったが、園長先生はいつも泰然自若としていた。見てるものが違うんだなと子供心ながらにいつも思っていた。川の水面の揺らぎやざわめきや煌めきに目を配りながら、心はその下の深いところを見ている。大きな流れを見ている。
 園長先生はいつも「書きなさい」と言った。話も聞いてくれたけど、聞き終わった後、いま先生に言ったことを原稿用紙に清書して持ってらっしゃいと言った。作文が嫌いで面倒臭がる子も多かったけど、辛抱強く相手をした。行数が増えていくと先生は喜んだ。でも、点数をつけたり、批評はしない。ただ、問題を掘り下げさせた。例えば、授業参観で親が来なくて「寂しかった」と書くと、「どうして君の心はそれを寂しいと感じたのかな?」「寂しいというのはどういう感情なんだろう?」「その寂しさが埋められるとして、埋めるにはどうしたらいいんだろう?」・・・もちろん、答えをすぐに書けるものではない。でも、それでも一生懸命に考えて原稿用紙のマス目を埋めていると、すこしずつだけど、漠然としていたものの姿が見えてくるようになるのだ。自分で自分の傷口を広げてるようで痛みは増すけど、自分を嫌な気持ちにさせているものの正体もじわじわと見えてくる。正体がわかれば、あとはそれにどう対処するかだけだ。とても勝てない強すぎると思ったら、一旦退却するか休戦すればいい。無理に戦う必要はない。すこしでも勝機があると思えたなら、作戦を考えて、失地回復に挑む。要は自分を楽にする戦いなのだ、自分を苦しめてるように見えるけれど。
 先生はそれを『バクゼンオバケ』とか『ヤミクモ』と呼んでいた。オバケやクモの化けの皮を剥がすのよ。正体がわかれば、怖くはあるけど、不安はなくなる。姿が見えるものは克服できる。姿が見えないから不安で圧し潰されてしまうんです。感情に流されてはダメです。感情について勉強しなさい。でないと、あなたの人生は水面に浮かぶ木の葉みたいに、感情という濁流に翻弄される儚いものになる。
 先生が言いたかったのは「考えなさい」ということだ。考えて、物事をクリアにするのだ。自分がその物事に対してどう思っているか、どう考えているか、はっきりすれば、解決法は自ずと生まれる。たとえ解決できないという解決法であっても。
 バスは市街を抜けて、起伏のある山間部に入っていた。
 窓の外を17年間見続けてきた景色が通り過ぎていく。特別な感情は湧き起こらない。
 「ヤバい、もうアパートに帰りたくなってきた」
 バスに乗って口数が減ったゆかりが、見てた雑誌を閉じながら言った。
 ゆかりにとっては監獄みたいなものだったものね。いつも早く出所したいと言ってた。
 施設への思いは人それぞれだ。出会う職員さんや同時期に一緒に暮らす園生によっても違ってくる。中3まで性格に難がある上級生がいて、毎日が憂鬱だった。わたしは園長先生が好きだった。
 園長先生は「考え続けなさい」と言った。思考は自分の地下へ降りていく階段で、一段降りると、また次の一段がある。楽しいわよ。地下深く降りていくと見たこともない景色が広がっていて、わくわくする。そして物事を見る目が深く養われてゆくと、この世界には本当にたくさんの素晴らしいものがあることがわかる。素敵じゃない? 
 わたしは小さなときから絵を描くのが好きだった。でも、先生はわたしに「文を書きなさい」と言った。あなたは文を書くことが先。絵は後からでも遅くない。
 バスが『小百合園』前の停留場に着いた。
 「ゆかりは何を書いてきたの?」
 園への道を歩きながら、わたしは聞いた。
 園長先生は誕生日プレゼントを受け取らない。その代わり『作文』を受け取るのだ。原稿用紙2枚以上が条件だ。卒園生は白紙で出しても、絵を描いても、よいことになっている。名前は書かなくていい。その後、発表されたり、表彰されて壁に貼られたりもない。
 「・・・タカシと誓った愛の十か条」ゆかりは笑いながら答えた。
 「なに、それ。ちょっと見せてよ」
 「浮気は絶対にしないとか、そういうこと。見せない。・・・加奈子は?」
 「わたしは『オズの魔法使い』で、なぜ西の魔女が傍若無人となるのか、その深層心理を分析したものを絵にして描いてきた」
 「・・・さすが芸術家は違うね。なに言ってるのかさっぱりわかりません」
 ゆかりは門のところで迎えてくれてる職員さんに「おひさでーす」と手を振った。
 講堂へ行くと、誕生日会の準備が在園生によって整えられていた。
 先生は今年はスピーチで何を話してくれるのだろう。昨年のスピーチで前振りしてたノストラダムスの大予言についてかな?




       19


 晁生はホテルの近くのカフェで客を待っていた。
 終わったら、ここに来ることになっている。心配だから待っててくれないか。その後、一緒に食事をしよう。
 晁生は料金を計算し、このぐらいになるがOKか? と聞いた。食事代もあなた持ちになる。客はOKだ、楽しい食事になることを祈ってると応えた。
 5人に1人ぐらい「日本の男の子としたい」と相談してくる客がいる。幸いこの街にはそういうサービスを提供する店があるので、事前に外国人OKと了解が取れたところ何軒かに連れていく。今日の客は2軒目で、一重で凛々しい顔立ちの背が高いボーイを指名した。話したところ、性格も良さそうで、店のマネージャーも慣れてる子だからだいじょうぶと言った。ショート2時間だから、あと30分もすれば、ホテルから出てくるはずだ。
 晁生の仕事は『通訳案内業』だが、通訳にさほど骨が折れるわけでもない。話す内容は簡単なものだし、多くの店は狭く、人声や音響でうるさく、客もだんだん大声を出して話す気がなくなるからだ。
 晁生が案内してるのは新宿2丁目だ。ほかの街でも行きたい店があると聞けば、事前に調べて、連れていく。新宿西口の高層ホテルでも、外国人宿泊客のために『ナイトツアー』を催行している。バスに乗り、歌舞伎町のニューハーフショーパブやホストクラブに連れていくものだ。しかし、中には通り一遍の観光ツアーでは飽き足らない客もいる。もっとディープな体験を求める人たちだ。
 晁生が案内してるのはその種の客だ。1人や仲間で来日している、アカデミック系やエンタメ関係の人たちが多い。開業して3年、いまでは紹介も増えた。ニューヨークやサンフランシスコなどのゲイショップにも案内パンフを置かせてもらっている。
 『通訳案内業』を生業としている人はかなりいるが、そのほとんどはデイタイムの観光だ。夜の観光となると、案内する場所が主に歓楽街となり、酒は入るし、トラブルもあるしで、敬遠する人が多い。それがゲイやレズビアンの街となると更に激減する・・・というか、いない。需要はそこそこあるのに供給がまるでない。つまり、そこに商機があるのだ。
 外国人に直に依頼される場合もあれば、日本人関係者を介しての場合もある。案内するところは客の要望に応えてさまざまだ。ふんどしや侍などの和もの系、ニューハーフショーパブなどのトランスジェンダー系、SM系、性的サービス系・・・案内時間が長くなればなるほど料金は加算される。もちろん、店の飲食代や交通費は客持ちだ。自分もそれなりに楽しめて、通訳もさほど要らず、実入りの良い仕事で気にいっている。月に平均30万はいく。時間もほとんどの客は日付が変わる前には投宿しているホテルに戻るので、しんどくはなく、自分の店の出勤にも差し支えない。注意してるのはトラブルを避けること。でも、客の多くは有産階級で、社会的地位も高い人たちなので心配はない。
 客がカフェの入口に姿を現わした。ボーイはいない。きっと店に帰ったのだろう。
 どうでした? と席に座った客に聞く。ドイツ系アメリカ人で、40代の経営者だ。顔を紅潮させて目をパチクリした。笑顔だったので、良かったのだろう。良かった。
 彼は家族と一緒に日本に来ていた。夫は仕事で、妻やこどもは観光を楽しむというパターンだ。彼は匂いを気にしていた。焼肉を食べに行きますかと提案した。美味しいですよ、男の子の甘い香りも消えてしまうのが残念ですが。
 焼肉屋で彼の話をいろいろ聞く。ホテルの部屋に戻って、家族に話せる内容じゃない。これも仕事だ。異国でエキサイティングな体験をしたら、誰だって人に話したいだろう。同好の士だから、心も許せるだろう。それにゲイは自分が知ってる限り、万国共通おしゃべりだ。恥じらいのない人が多い。たまに口説かれることもある。タイプだったら考える。もちろん、そこにビジネスはーー加算料金は発生しない。
 日本のゲイ事情などについても聞かれれば話す。情報交換もする。ゲイの世界親善交流にも寄与してるのではないかと思う。話が大きくなった。
 客から代金を受け取り、タクシーに乗せて運転手に行き先を伝えて、別れた。

 『2020』に行くと、終電の時間が近づいてることもあり、客が1人、2人と帰っていくところだった。早番のハセとアンニョンもここで帰る。
 日付が変わるここからは晁生とジョージの2人でやるか、どちらか片方の場合もある。客がいなくなれば、早仕舞いするときもある。気楽にやっている。
 オープン当初は若い子の溜まり場みたいだった店も、最近はすこし客層が変わってきた。新進の文化人や起業家を呼んでセミナーを開いたり、この街ゆかりの作家やアーティストたちの作品を店内にディスプレイし、展示販売しているからだろう。この街のブランドを創るのも面白いといま話し合っている。散らばっている個の才能を集めて、しっかりとした流通販路をつくる。作品を街のショップやコンビニで宣伝して売る。いずれはネットも活用して全国区に広げてゆく。ビジネスとして成功させることが夢だ。
 来週はカウンターの後ろにスクリーンを設置し、キースへリングのドキュメンタリーフィルムを毎日上映することになっている。若い子たちに多くの刺激と興奮を与えてくれるだろう。
 「この子の作品、いいよね」
 ジョージがシルバーの指環を手に取って言った。
 よくあるワイルド系ではなく、シェルのような曲線をもったエレガントなデザインだ。小さなカラーストーンが意表を突いたところにあしらわれている。
 「隠しイニシャルも入れられるんだね。アメリカでエンゲージでも流行るかも。一個一個デザインが微妙に違うのも自分感があっていい」
 ジョージの父はアメリカで多角的に事業を展開している。晁生が働いてたのは旗艦の日本料理店だったが、よくあるアメリカナイズされたものではなく、本格的な和食の店だった。下手な考え休むに似たり、本物は絶対に受け入れられるという信条らしい。ほかにも、雑貨や生活便利品を扱う店、アパレル系・・・いろんな事業を意欲的に営んでいる。長男がゲイなので、いまはその方向にも食指を動かしているみたいだ。
 「あとは量産がきくかどうかだね。それにブレスレットとかほかのアクセサリーのラインナップも充実させていきたいね・・・この子、これでいま生活できてるのかな?」
 「無理でしょう、たぶん」晁生はグラスや皿を洗いながら答えた。
 ジョージは仕事の話をしていると、目尻のあたりがキリリと雄々しく上がる。いつもこの顔をしてれば、カッコいいのにと思う。
 「ほらほら、起きないと終電に間に合わなくなっちゃうよ」
 晁生はカウンターで突っ伏している若い子の肩を叩いた。飲み過ぎたのか、眠いのか、来たときから、この状態だ。
 「・・・は~い、おいくらですか?」男の子はすこし動いた。
 「30万円です」ジョージが伝票を見ながら言う。
 「・・・うそ!?」若い子が跳ね起きる。
 もちろん、嘘だよ。ぼったくりバーじゃないんだから。ジョージはいつ覚えたのか、このオフザケが最近気にいっている。ラテン系の顔で言われたら、真実味があって冗談とは思えない。
 「あ、間違えた・・・3千円です」
 しかし、客の目を覚ますには一定の効果はあるみたいだ。男の子はバッグから財布を出し、代金を払った。そのまま立ち上がり、店の出入口に向かおうとしたが、よろめき、またカウンターに戻ってきた。
 「・・・すみません、朝まで、いていいですか?」
 「家はどこなの?」
 「川口です。終電、間に合いそうもありません」
 ・・・じゃ、しょうがないか。
 「じゃ、端っこに移動してくれる? 始発になったら、起こすから」
 男の子は礼を言うと、よろよろとカウンターの端まで移動し、また腕を組んで突っ伏した。
 「あの子、さっきまでずっと泣いてたんだよ。1年半付き合ってた彼と今日別れてきたんだって・・・電話がかかってくるかもって待ってるのかもね」
 ジョージが男の子の心情を代弁するように言った。
 「何歳?」
 「大学1年だって」
 「じゃ、18か19か。高校のときから付き合ってた彼氏か」
 「はじめての男だって言ってたよ」
 何でもしゃべるんだな。ゲイの子はホントおしゃべりだ。まぁ、人のことは言えないか。
 「若いころは恋に免疫がないから、失恋は辛いよな」
 「話を聞いてて、もらい泣きしそうになっちゃいました。まだ、いろいろとピュアなんだなって・・・ってことでマスター、今日は早引けさせていただきます。家に帰って、僕もシンミリ一杯やりたいんで」
 ジョージ、お前はいつから演歌の歌手になった? すごい勢いで日本ナイズされている。
 「じゃ、ここでもいいじゃん。グラスに酒をついでやるよ」
 「1人になりたいんです。1人になりたい夜が僕にもあるんだよ」
 まだ、続けてる。
 「1つになりたいんじゃないの? また、誰かと約束してんだろ」
 「ご名答! じゃ、お疲れさまでしたーー」
 ジョージは足取り軽やかに店を出て行った。あいかわらず、腰が軽いやつだ。あいつにピュアなころなんてあったのか? ないやつもいそうだ。
 奥のテーブルにいた客たちも清算して出て行った。
 店内には男の子と晁生だけが残された。
 ああ、無理にでもこの子を帰らせればよかったかな・・・そしたら店を早仕舞いできたなんて考えたけど、まぁ今夜はこの子に付き合ってやる運命だったのかもなと思い直した。
 晁生はカウンターの中に置いてある椅子に一息つくように座った。
 昔、いまとまったく逆の立場で『B-JET』にいたことがあったな・・・
 亮と別れた夜で、自分も冷たいカウンターにキスするようにくたばっていた。
 本当に好きだったんだなぁと思う。いまじゃ、失恋しても、あんな全身で悲しみと渡り合ったりしない。
 男の子に彼から電話があればいいな。些細な行き違いならいくらだってやり直しがきくし、オレも店を閉めて帰れる。
 




      20


 「なんだかわたし、ダメな女になりそうだわ」
 バンビさんが昼の食卓でため息をついた。
 独り言か、わたしに話しかけてるのか、わからなかったので、次の言葉を待つ。
 そのまま、ご飯を食べはじめたので、
 「どうしたんですか?」と加奈子は聞いた。
 「だって、あなたが全部やってくれるんだもの。ご飯の用意も、掃除も、洗濯も」
 駄々をこねるように言う。「妹なのに、まるでお母さんみたい。わたし、何十年かぶりにお母さんの愛に包まれてる気分よ」
 だんだん芝居調になってきた。ここからはお涙頂戴にいくか、わたしに逆ギレ芝居するかのどちらかだ。だんだんニューハーフ界の三段活用みたいなものがわかってきた。
 バンビさんは手の甲でわざとらしく涙をぬぐった。スッピンなので、いくらぬぐっても問題ない。鼻を啜りあげる音。
 ここで「よし、よし」となだめる演技で共演してはダメだ。逆ギレする機会を与えることになる。まだ、傍観だ。わたしは学習したのだ。
 「ほらほら、お味噌汁が冷めますよ」
 照れ隠しみたいな、バカな子ねってノリで、さりげなく言ってみた。
 バンビさんは顔を上げて、わたしを見た。
 「あしらい方が上手くなったわね」と言って、ニッと笑った。
 「えへっ」とブリッコみたいに首をかしげて笑って返した。
 「どうしよう? これからマジすこしは自分でやろうかな。加奈子が来る前は一人でやってたんだし」
 ここは受け流す。自問自答してるから。
 「・・・でも、加奈子、料理うまくなったわね」
 「ありがとうございます」
 「わたし、太った?」
 注意信号発令、逆ギレパターン復活。ここで、そうですね、すこしふくよかになったかな、なんて言った日には、あなたのせいよと怒鳴られるに決まってる。
 「そんなことないです」わたしはバンビさんを上から下まで見て断言した。
 「そう・・・まぁ運動もしてるしね。加奈子は栄養バランスいろいろ考えてくれるしね」
 はい、そうしてます。炭水化物、糖質を減らした食事を心掛けています。
 「どうしようかな。これから自分の部屋だけでも自分で掃除して、食事も休みの日ぐらいは自分で作ろうかな」
 ここは独り言続行中。ヘタに口をはさむと面倒臭くなるので、聞き流す。バンビさんは基本的に自分で答えを出す人です。
 「加奈子はどう思う?」
 わぁ、フッてきた。
 「気が向いたらやる、でいいんじゃないですか」
 バンビさんの本心を透視して答える。
 「そうね・・・そうしましょう」
 バンビさんは止めていた箸をまた動かし、食事を再開した。
 一件落着。内容に生産性はなかったけど。
 「でも、加奈子はホント甲斐甲斐しく働くよね。痒いところにも手が届くし。いいお嫁さんになるわよ」
 「ありがとうございます」
 「それで、どっぷり楽な生活をしてるわたしはどんどん婚期が遅れるんだわ。お嫁に行けなくなるんだわ」
 一件落着と思ってたのに、また逆ギレパターン復活。
 「加奈子、わたし、お嫁に行けると思う?」
 「行けますよ、綺麗ですから」
 「昔、そういう芸能人いたわね。君は何もしなくていい、そばにいるだけで、美しいから。それで本当に何もしなかったら、離婚したっていう」
 バンビさんはご飯をきれいに平らげて、ほうじ茶に手を伸ばした。
 「ご馳走さまでした。本日も誠に良いお味でした。やっぱ朝は和食ね・・・さ、今日はどうしようかな?」
 「おじさまとデートじゃなかったですか?」
 「・・・そうだった、いやだ、すっかり忘れてた。何時からだっけ?」
 「ええと」加奈子はホワイトボードを確認しに行った。「4時からです。銀座でショッピングして麻布で食事です」
 「加奈子、そんなことまでボードに書いてるの?」
 「・・・いや、詳細はわたしの頭の中の記憶です」
 「ホント、何から何まで有能なマネージャーね。そしてわたしはどんどん忘れっぽくなって、バカになっていく。・・・じゃ、そろそろ支度しないと」
 「帰ってくるの、遅くなりそうですか?」
 「・・・そうね、誘われたら、どうしよう? マネージャー、どうしたらいいでしょうか?」
 「帰ってらっしゃい」
 「わかりました! あなたってホントわたしの貞操帯だわ。すぐヤキモチ焼くからホント可愛い。わたしを本当に愛してるのね」
 「だから毎日、愛してるって言ってるでしょう」
 「ああ・・・君が男だったらどんなに良かったのに。それとももしかして・・・」
 今度はメロディもついて宝塚調になってきた。ベルサイユのばらですか。
 「・・・もしかしなくても女ですけど、もしわたしが男だったら、バンビさんに結婚を申しこんでます」
 「・・・やだ、はっきり言われると、相手が女でも嬉しいわね。いまちょっと、グッときちゃったわ。・・・もう一回、今度は低い声で言ってみて」
 「バンビさん、結婚してください」
 「ごめんなさい! それは無理、叶わぬ恋よ。だってわたしたち、女同士ですもの」
 バンビさんは舞台から消えるように踊りながら部屋を出ていった。


 「バンビさん、一つお願いがあるんですけど」
 ドレッサーの前でバンビさんは化粧をしている。
 食事の後片付けも終わり、テーブルでほうじ茶を飲みながら、いつものように鏡に映るバンビさんを見ている。
 「なあに?」
 「庭に花を植えてもいいですか?」
 加奈子は窓のほうに視線を移した。
 「・・・庭?」
 「はい」
 「ああ、外?」
 「はい」
 バンビさんは、何を急に言い出したのかみたいな顔をしている。庭と言われても、その存在すら忘れてたんだろう。
 「・・・いいけど、加奈子、花が好きなの?」
 「花も好きですけど、庭も好きなんです」
 「そう・・・いいわよ、どうぞ」
 バンビさんは化粧をする手を止めて、何か思い出したような顔をしている。また、化粧に戻りながら言った。
 「・・・最初ね、ここに来たとき、犬を飼おうと思ったの。それで1階で広い庭があるここに決めたの。ドッグランになるし。でも、いろいろ考えてるうちにやめちゃった。ママのところには犬が3匹もいるのよ。みんな、ゲイボーイの飼育放棄。隣人から文句がきたり、男と住むようになったからとか、面倒を見切れないとか・・・もうこれ以上、ママのところの犬を増やす訳にもいかないからね。それに婚期が遅れるともいうし」
 「犬が好きなんですか?」
 「フツーに好きって感じ? だって、1人だとたまにすごく寂しいときがあるじゃない」
 「犬は可愛いですよね」
 「うん、帰ってくれば、ものすごく喜んでくれるしね」
 「もうこの先、犬を飼う予定はないんですか?」
 「だってほら、いまはもう大きな犬がいるし」と言って、鏡に映りこむわたしを見たので、
 「ワン」とサービスで応えた。
 「・・・だからいいわよ、好きにして。わたしも花は好きだから大歓迎」
 「じゃ、ぼちぼちゆっくりやらせていただきます」
 「かかったお金も申請してちょうだい。必要経費で落とすから」
 「はい、ありがとうございます」
 バンビさんが自室に引っこんだので、加奈子は立ち上がって、庭を見に行った。
 LDKの掃き出し窓を開けると、2畳ぐらいのウッドデッキがある。ここもすこし苔むしてるから、水洗いしないと。その前方に横長の6畳ぐらいの庭が広がっている。周囲は木立が植栽され、通路や隣家からの目隠しとなっている。右角に大きなモミジの木がある。うっすらと紅葉している。左角にも5メートルはある、大きな木があるが、名前はわからない。常緑樹みたいだ。ウッドデッキのステップから庭に下りてみる。
 下りるのはこれで3度目だ。サンダルも買って置いてある。庭のコンディションはだいたいつかめている。前の住人が植えたのか、ところどころに芝生の跡がある。花壇を造ったような形跡はないので、芝を敷き詰めたアメリカンな庭だったのだろう。草がそれほど生い茂ってないのは、芝が雑草の種をブロックしていたからだ。ドクダミやカタバミの姿が見当たらないのでホッとした。それらが生えてると、除草作業が大変だ。
 陽当たりはさほど悪くないように見える。季節が一周しないとよくわからない。庭は南向きだが、周囲をそこそこ高い建造物や樹木が覆っているため、午前十時ぐらいにならないと陽は射しこまないかもしれない。東も同様だ。
 ウッドデッキに戻って、縁に座って、どんなふうにしようかなと庭を見ていたら、バンビさんが窓を開けて、やってきた。
 「・・・ここに出てきたの、久しぶりだわ」
 ウッドデッキの端に簡易物干しが置いてある。たまにジーンズか何か干していたのかもしれない。いずれ、洗濯物も干せるようにしてもいいだろう。きっとお日様の香りがして、気持ちいいに違いない。
 「何か好きな花はありますか?」バンビさんに聞いた。
 「・・・あんまり知らないけど、月並みに薔薇かしら」
 「薔薇かぁ・・・」
 「なに、薔薇はダメなの?」
 「薔薇は分類上、樹木なんです。樹木を植えるとあとあと大変なので、植えないつもりです」
 「大きくなるから?」
 「はい、ずっと面倒を見られるかわからないし・・・それに薔薇ってお世話が大変なんですよ。虫はつくし、病気にかかりやすいし、肥料は食うし、トゲはあるし。薔薇の手入れだけで一日が終わっちゃいます。ちょっと無理です」
 「なんだかそれ、わたしみたいね。この家に薔薇はわたし1人でいいってことね・・・でも、ずいぶん詳しいね。園芸部でも入ってたの?」
 「園長先生の庭をずっと手伝ってたんです」
 「施設の?」
 「はい。こどものときからずっと」
 「だから、庭が好きなんだ?」
 「はい」
 先生の庭はいまごろ、どうなってるだろう? この前、誕生日パーティーで行ったとき、見に行きたかったけど、時間がなかった。先生の家は施設のいちばん端にあって遠い。後輩がちゃんと手伝ってると思うけど、すこし気になる。いまはもう秋だから、来年の早春に行ってみよう。
 「加奈子はどんな花が好きなの?」
 「花はみんな好きですけど、しいてあげるなら、野草みたいな花かな」
 「野草?・・・ヒメジョオンとか?」
 「・・・嫌いじゃないですけど、あれは本当に野草です。もうちょっと見た目が華やかで、観賞価値があるものかな・・・ちょっとやらしい言い方ですけど」
 「例えば?」
 「有名なところだと、コスモスとかスミレとか」
 「ああ・・・よくある普通な感じ?」
 「はい、よくある感じです」
 「じゃ、楽しみにしてる。いつごろ、お披露目予定?」
 「本格的にやるのは来年の早春です、霜が降りなくなったころ。年内は草取りと庭のデザインを考えます。すこしは何か植えるかもしれないけど」
 「・・・そうなの。ああ、もう寒くなるからか」
 「はい。冬は植物も休眠期です」



       21


 近所を歩きながら庭を覗くと、このあたりは冬でも暖かいんだなと思う。
 ランタナやジニアがまだ咲いている。気温もあきる野に比べて、かなり高い気がする。そういえば、都市のヒートアイランド現象という問題を聞いたことがある。
 花屋の軒先にはパンジーやシクラメンが売られている。シクラメンを見ると師走だなぁと思う。ポインセチアを見るとクリスマスだなぁと思う。
 今日は午後の予定がなくなったので、加奈子は早くマンションに帰ってきた。バンビさんは行き違いでダンスと歌のレッスンに行っているはずだ。
 軽く食事をとり後片付けをして、作業着に着替えて、庭に出て、草取りを始めた。
 地面にしゃがみこんで根気よく雑草を駆除していく。むしるのではなく、抜けるものは抜いて、強く地面にへばりついてるものは剪定ハサミで根の付け根を切っていく。付け根を切って完全にやっつけないと、生き残った根からまた新しい芽が生えてくる。
 雑草は大きく分けて、春と夏に生えてくる。ポイントは花が咲き種ができる前に退治することだ。しかし、いま駆除している夏草はもう種ができ飛んでしまった後だった。来年の夏にはまたわんさかと草が生えてくることだろう。
 園長先生の庭でも草取りは恒例行事だった。特に春と夏の草取りが大変だった。春は草じゃないものを間違えて抜かないように注意しなくてはならない。夏は暑いし、蚊やハチがいて、うっとおしい。でも、楽しみもあった。しゃがむと目線が下がるので、立っていたときには見えないミニマムな庭の世界が見えるのだ。それは春を告げる草花の芽であったり、落ち葉の合間から顔を覗かせている小さなスミレの花だったりした。夏は蝉の幼虫の抜け殻や野イチゴの実。トカゲやカエルもいて大騒ぎだった。庭には虫もたくさんいた。ハチ、蝶、トンボ、蝉、バッタ、秋の虫・・・草取りをしている上を紋白蝶やアゲハがひらひらと舞っては飛んでいく。目の前の花にとまる。風に抗いながら蜜を吸う。飽いたらまた次の花へ。ハチがいたら気をつけなければならない。特に夏は巣を作って子育てをしてるので攻撃的だ。ブッシュや垣根のそばで作業するときは要注意だ。草を抜き取った跡には鳥もやってくる。土がほじられたときに出てくるミミズや小さな虫を狙っているのだ。木の上から見ているのか、引っくり返された土の匂いがして飛んでくるのか・・・鳥が近くにいる生活って楽しい。
 幸い、いま作業しているこの庭には、蟻や動きの鈍いコオロギぐらいしか見当たらない。虫たちも冬支度の最中だろう。
 芝はこのまま残そうと決めた。残っている芝生を生かした散歩道を造ろう。
 冬の太陽はぽかぽかと温かい。西日がかなり射しこむが、あとすこしで木立に遮られるだろう。土に触れるのは久しぶりだった。大地にしっかり足を着けて立って生きているようで、吸う空気が違うような気がする。草を抜いた後の微生物が蠢くようなこの匂いも懐かしい。
 加奈子は駆除した草を集めて、庭の片隅にまとめた。来春までにはカサカサになって処分しやすくなるだろう。ウッドデッキに隠れて見えなかったが、建物の外壁に水道栓が設置されているのも発見した。蜘蛛の巣が張った蛇口を捻ってみる。水は出る。手袋を外し、さっと手を洗う。すこし生温かい。ウッドデッキの縁に座り、雑草を駆除した庭を眺めた。

 部屋に戻ると、バンビさんがすでに帰ってきていて、鏡の前で踊っていた。
 「いつ、帰ってらしたんですか?」
 「さっき・・・20分ぐらい前かな」
 「すみません、気づきませんでした」
 「いいのよ・・・終わったの?」
 バンビさんは鏡から目を逸らさず、真剣な顔で踊りをチェックしている。今日のレッスンで習ってきたことの復習だろうか。
 「はい、だいたい」
 わたしが庭にいたことは知っていたようだ。
 「お疲れさま」
 加奈子は台所へ行き、お茶の支度をした。一応、お茶菓子も用意して、テーブルに並べた。踊っているバンビさんを見ながら、終わるのを待つ。
 「加奈子、いつもあんなブツブツ言いながら、草むしりしてるの?」
 バンビさんがプ―アール茶を飲みながら、思い出したように笑った。お菓子にはやっぱり手をつけない。現在、ダイエット中だ。
 「え・・・聞こえてました?」
 「何をしゃべってるのかはわからなかったけど、帰ってきて外を見たら、地べたに這い蹲ってるし、わたし、ノイローゼになった犬が庭にいるのかと思ったわよ」
 「・・・いろいろです。独り言です」
 わたしは独り言を言う癖がある。自分では小さな声でしゃべってるつもりだが、意外に大きな声を出してるときもあるらしい。部屋に入ってきた人に誰かと話してるのかと思ったと気味悪がれたことも多い。
 「例えば?」
 そう聞かれても、すぐには思い出せない。考えてることと口に出してることがごっちゃになってて境界線がはっきりしない。
 「草さん、抜いてゴメンね。でも、来年にはあなたのこどもがわんさか生まれてくるからいいわよね・・・といった感じです」
 「ああ、不平不満みたいなものじゃないんだ。それって・・・罪悪感?」
 「それほど大袈裟なものじゃなく、単なる気休めです」
 あとは、ここに来年なにを植えるつもりですか? そうですねー、ジギタリスかな。瑠璃玉アザミもいいですねーといった具合。自問自答形式が多い。単調な作業を楽しく効率よく進める方法だ。気を逸らしながらやってると仕事はオートになるし、時間が早く過ぎていく。
 「優しい性格だから、いちいち謝るのかもね。それとも、病む一歩手前か」
 「優しくはないです。抜くときは情け容赦なく抜きますもん。・・・ただまぁ、言い訳は探してますね」
 「でもまぁ、さっぱりした。すがすがしいわ」
 バンビさんはカップを手に窓から庭を見ながら言った。「クリスマスツリーでも飾ろうかな、ライトアップして。いいかも」
 「バンビさん、そういうの好きなんですか?」
 「・・・そうでもない。思いつきで言ってみただけ・・・加奈子は?」
 「ツリーはなくてもいいけれど、クリスマスはいろんなものがもらえて好きでした」
 「・・・加奈子の施設って、キリスト教じゃなかったよね?」
 「はい、違います。でも、クリスマスになるといろんな人からーー主に会社ですが、プレゼントが届くんですよ。お菓子とか玩具とかゲームとか。それが楽しみでした」
 「ああ、なんとなく想像がつく。家族がいないこどもたちにサンタからプレゼントって感じよね。・・・クリスマスパーティーは?」
 「それが・・・園長先生が宗教嫌いで、あ、バンビさん、どこかの宗教に属しています?」
 「なんで?」
 「昔、この話をペチャクチャしゃべって失敗したことがあるんです。基本、宗教への悪口なので・・・それから先に聞くようにしています」
 「ないわよ。どこかのお寺にお墓はあると思うけど」
 「じゃ、だいじょうぶですね。・・・クリスマスパーティーはこどもたちが楽しみにしてるのでやるんですけど、おざなりで、園長先生は参加しません。園長先生は自分で物事をよーく考えて自分で答えを出しなさいが信条の方なので、神様が代わりに何でも考えてくれて生きる道も教えてくれる宗教が嫌いなんです。ですから、当然、その行事も嫌いです」
 「へぇー、慈善家には珍しいタイプの人なのね。でも、言ってることはよくわかるわ。宗教やってる人はわたしも苦手」
 「バンビさんはクリスマスは?」
 「わたしも同じ。この時期はプレゼントがもらえるから好き。業界では稼ぎどきです」
 バンビさんは今日も同伴出勤だ。12月に入って3度目。粉をかけてるのだそうだ。いつもより、2時間早く家を出る。晩御飯は用意しなくていい。
 「わたし、イブもクリスマスも今年は仕事だわ」
 バンビさんは壁に掛かったカレンダーを見ながら言った。今年の日の並びは金土だ。「加奈子、何かやりたい?」
 「やらなくていいです。基本、興味ありません」
 「イブの夜は彼氏と過ごしたいとかないの?」
 「だって、いませんもの」
 「いまから大急ぎでつくるとか?」
 「だから、いらないです」
 「でも、はじめて1人で迎えるクリスマスになるんじゃないの?」
 「そうです。いままではずっとみんなと一緒でしたから」
 「じゃ、がんばってなるべく早く帰ってくるね」
 「はい、お願いします」
 「何かプレゼント欲しい?」
 「いらないです。いやな予感しかしません」
 「聖なる日に罰当たりなことはしないわよ。何か言ってみ」
 「バンビさんがちゃんと帰ってきてくれるだけで充分です。バンビさんがサンタクロースです」
 「そんな歌があったわね。わたし、男じゃないけれど」
 バンビさんは「わたしはね・・・」と言って、夢見る乙女のように両の掌を合わせて宙を見た。「愛が欲しいわ。宝石や洋服やお金じゃなく、愛が。本当はそれだけあれば幸せなのに、人はなぜ愚かに道を誤るのかしら? 強欲なのかしら? 神様、教えてください」
 「そろそろ本当に罰が当たりますよ」
 わたしは時計を見た。「そろそろ用意しないと、同伴にも遅れます」
 「そうそう、加奈子は年末年始はどうするの?」
 「どうもしないです。別に何の予定もありません」
 「いつごろから冬休みだっけ?」
 「19日から・・・来年の6日ぐらいまでです」
 カレンダーに書いておかないと。バンビさんの休みは30日から5日までとすでに書いてある。
 「友達とどっか出かけたりしないの?」
 「・・・しません。どっか出かけてたほうがいいですか?」
 「そんなことは一言も言ってません」
 「バンビさんは年末年始どういうご予定なんですか?」
 「まだ、何も決めてません」
 「毎年、どう過ごしてるんですか?」
 「ここ数年はここでぐたぐたしてることが多いわ。誘いがあって気持ちが乗れば出て行くこともあるけれど。でも、やっぱ面倒くさくて、テレビ観ながら、ぐたーっとしてることが多いかな」
 「わたしもここにいて、だいじょうぶですか?」
 「というより、家政婦に休みはありません」
 「・・・ありがとうございます。一生懸命働かしていただきます」
 「でも、今年は加奈子がいるから、どっか旅行でも行こうかな。・・・どっか行きたいところある?」
 バンビさんと一緒なら行きたいところはいっぱいあります。ヨーロッパとか。
 「・・・そんな。家でいいです」
 「でも、ハワイとか、いまから予約は遅いか・・・来年は2000年だものね。海外で新年を迎えるの、大盛り上がりみたいだし。何だっけ、それ?」
 「ミレニアム?」
 「そうそう、ミレニアム。じゃ、逆に国内はまだ空きがあるかもね。しっぽり温泉に入って懐石料理とかもいいかもね」
 ハワイなら、温泉と懐石料理のほうがいいです。
 「じゃ、どこか行きたいところがあったら考えといて」






 
 



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