- 2020/07/19
- Category : エッセイ、寄稿など
Mのモノローグ
何年か前、小説の取材をしていたとき、Mと仲間内から呼ばれている男と出会った。Mはもし君が本当に小説を書くことがあったなら、俺のことを書くと面白いと言った。そしてその約束はとうとう果たされず仕舞いだったが、この機会を得て、彼のことを紹介してみたいと思う。それは確かこんな話だったと思うーー
俺はいわゆる男根的なやつらが大嫌いだ。何かと言うとすぐ「男らしくねぇやつだな」とか「男ならやってみな」とか言ったりするやつらのことだ。いったいやつらの根拠のない単純馬鹿さかげんはどこからやってくるんだろう? スポ根漫画からか、ヤクザ映画からか、それとも親父からか。そう、それはたぶん親父経由でやってくるんだ。いまだにそれが『男』だと、男の生きざま(美学)だと信じて疑わない前時代的封建主義的な土壌から。やつらの好きな言葉は「けじめ」だとか「女は教育するもんだ」とか「男は仕事と家庭を持って一人前」だとか、ほんと枚挙に暇がないほど腐るほどある。髪の毛が長いやつや、チャラチャラした格好のやつを見ると、いまだに「オカマ」と喧嘩を売ったりもする。・・・でもまぁ別にそんなことはどうだっていい。だってその表現の仕方・形はどうであれ、皆それぞれ誰かを侮蔑して生きているのが人間の社会ってやつなんだから。例えば俺がこうやってやつらを侮蔑しているようにね。
それでまぁ俺が問題にしたいのは、やつらのその『知性』のなさだ。やつらの知性は、それがとても知性とは呼べないほど、進化が止まってしまっている。そして進化が止まってしまっているだけならまだいいんだが、タチの悪いことにそういうやつらに限って、人に説教したり、人に命令したりするのが好きなんだな。つまり「自分が一番!」だとどうにも頑なに信じて疑わない。それでそれが結果として形をとると、そういうやつらに限って何の思慮もなく子供を作ったりするのが好きだから、世の中はほんと劣性遺伝子の宝庫、栄華となる。それでまだちゃんと子供を育ててくれればすこしは救われるんだが、「浮気は男の甲斐性」とか「家庭を守るのは女の仕事」とか勝手なことをほざいて、まったく家庭や子供のことを考えないものだから、行き着く果ては当然、家庭の崩壊だ。それで何のマシな教育も親から受けられなかった(だって親がほかならぬ巨大な子供なんだから)やつらの子供がまた非行や犯罪に走り、結局、やつらの遺伝子は進化が止まったまま、同心円状にぐるぐると果てもなく回り続ける。・・・つまりそこには象の足ほどののろい進化か、甲冑類への逆行ぐらいしかない。
しかし、俺が不思議に思うのは、世の中にはそういう男根的馬鹿男を好きな女がけっこういるってことだ。まぁそれはもちろん男根的馬鹿男の親から生まれてきた女に多いんだが、あながちそうとばかり言えない。「黙ってあなたについていくわ」とか「責任は男がとるもの」とかはそれらの顕著な発露ではないだろうか? つまり俺はここで真の意味での『男性性・女性性のそれぞれの自立』って問題を言ってるんだが、女の内奥にはそれら男根的なものに対する抗しがたい生物学的な『依存』てやつが潜んでいるんじゃないかと思う。心の表面(精神)ではそれらに異議・嫌悪を唱えながらも、心の奥底(肉体)ではそれらを欲求しているようなさ。
そしてこの話は実はここからが本題なんだ。それで俺が本当に自分をアホらしく思うのは(笑)、俺の中にもそういう『女』が確実にいるってことなんだ。口ではそういうやつらを糞味噌にけなしてはいるものの、俺の中の『女』はそういうやつらを魅力的だと感じてしまっている。簡単に言っちゃえば、俺をSEXにおいて最も感じさせてくれるのは、そういう男根的な男だったりするわけだ。畜生、まったく笑い話にもなんないんだけどさ。
でもSEXは突き詰めれば、攻撃性、暴力性の問題だと俺は思う。ならばそれらのエッセンスがピュアに最大限に発揮されるSEXがーーつまり男根的な男と行為するSEXが、最も感じさせてくれるSEXだと言っても、あながち過言ではあるまい。要するに知性とか優しさを取っ払った加虐・被虐がくっきりコントラストを描くSEXという意味だが。
だからもしこの世から男根的馬鹿男がいなくなったら、俺は本当つまんなくなっちまうだろうな。俺のSEXは一滴の泉さえ湧き出ない不毛な砂漠になっちまうだろう。だから俺は皆が非男根的(ノンーファリック)になればいいとか、時代の寵児だとか言ってゲイを礼賛する気はこれっぽっちもない。男が皆、男根的でなくなってしまったら、いちばん困るのは女ではなく、俺たちゲイだろう。まぁ正確に言えば、俺みたいな性癖(趣味)をもったゲイだか、バイだか、よくわかんないやつということになるのだが。
まぁ人それぞれ知らないところで何かの役に立ってるってことかな。男根的なやつらと精神的なおつきあいは御免蒙りたいが、肉体的なおつきあいだったら、いつでもOKってことだ。
イマーゴ imago(青土社)『ゲイの心理学』1991年2月号 所収
当時、ゲイブームの渦中で、自分はよかれあしかれその中心あたりにいたので、その手の取材・原稿依頼が多かった。いつも「ゲイの友達は多いし、人よりその世界について詳しいと思うけど、自分は当事者ではないので、より深いところは語れないし、語る資格もない」と依頼に対して前置きしていた。「当事者ではない」ということはとても肝要なことで、つまり自分はその問題について身につまされる苦悩はしてないし、深刻に考えたりもしてないということだ。
しかし、そんなちっぽけな良心など関係なく、取材や企画や原稿依頼は続いていく。傍目には僕はゲイで、ゲイのスポークスマンみたいな位置にいたと思う。まぁ、書いた小説が書いた小説だから、しょうがないわな(笑)
それでまぁ俺が問題にしたいのは、やつらのその『知性』のなさだ。やつらの知性は、それがとても知性とは呼べないほど、進化が止まってしまっている。そして進化が止まってしまっているだけならまだいいんだが、タチの悪いことにそういうやつらに限って、人に説教したり、人に命令したりするのが好きなんだな。つまり「自分が一番!」だとどうにも頑なに信じて疑わない。それでそれが結果として形をとると、そういうやつらに限って何の思慮もなく子供を作ったりするのが好きだから、世の中はほんと劣性遺伝子の宝庫、栄華となる。それでまだちゃんと子供を育ててくれればすこしは救われるんだが、「浮気は男の甲斐性」とか「家庭を守るのは女の仕事」とか勝手なことをほざいて、まったく家庭や子供のことを考えないものだから、行き着く果ては当然、家庭の崩壊だ。それで何のマシな教育も親から受けられなかった(だって親がほかならぬ巨大な子供なんだから)やつらの子供がまた非行や犯罪に走り、結局、やつらの遺伝子は進化が止まったまま、同心円状にぐるぐると果てもなく回り続ける。・・・つまりそこには象の足ほどののろい進化か、甲冑類への逆行ぐらいしかない。
しかし、俺が不思議に思うのは、世の中にはそういう男根的馬鹿男を好きな女がけっこういるってことだ。まぁそれはもちろん男根的馬鹿男の親から生まれてきた女に多いんだが、あながちそうとばかり言えない。「黙ってあなたについていくわ」とか「責任は男がとるもの」とかはそれらの顕著な発露ではないだろうか? つまり俺はここで真の意味での『男性性・女性性のそれぞれの自立』って問題を言ってるんだが、女の内奥にはそれら男根的なものに対する抗しがたい生物学的な『依存』てやつが潜んでいるんじゃないかと思う。心の表面(精神)ではそれらに異議・嫌悪を唱えながらも、心の奥底(肉体)ではそれらを欲求しているようなさ。
そしてこの話は実はここからが本題なんだ。それで俺が本当に自分をアホらしく思うのは(笑)、俺の中にもそういう『女』が確実にいるってことなんだ。口ではそういうやつらを糞味噌にけなしてはいるものの、俺の中の『女』はそういうやつらを魅力的だと感じてしまっている。簡単に言っちゃえば、俺をSEXにおいて最も感じさせてくれるのは、そういう男根的な男だったりするわけだ。畜生、まったく笑い話にもなんないんだけどさ。
でもSEXは突き詰めれば、攻撃性、暴力性の問題だと俺は思う。ならばそれらのエッセンスがピュアに最大限に発揮されるSEXがーーつまり男根的な男と行為するSEXが、最も感じさせてくれるSEXだと言っても、あながち過言ではあるまい。要するに知性とか優しさを取っ払った加虐・被虐がくっきりコントラストを描くSEXという意味だが。
だからもしこの世から男根的馬鹿男がいなくなったら、俺は本当つまんなくなっちまうだろうな。俺のSEXは一滴の泉さえ湧き出ない不毛な砂漠になっちまうだろう。だから俺は皆が非男根的(ノンーファリック)になればいいとか、時代の寵児だとか言ってゲイを礼賛する気はこれっぽっちもない。男が皆、男根的でなくなってしまったら、いちばん困るのは女ではなく、俺たちゲイだろう。まぁ正確に言えば、俺みたいな性癖(趣味)をもったゲイだか、バイだか、よくわかんないやつということになるのだが。
まぁ人それぞれ知らないところで何かの役に立ってるってことかな。男根的なやつらと精神的なおつきあいは御免蒙りたいが、肉体的なおつきあいだったら、いつでもOKってことだ。
イマーゴ imago(青土社)『ゲイの心理学』1991年2月号 所収
当時、ゲイブームの渦中で、自分はよかれあしかれその中心あたりにいたので、その手の取材・原稿依頼が多かった。いつも「ゲイの友達は多いし、人よりその世界について詳しいと思うけど、自分は当事者ではないので、より深いところは語れないし、語る資格もない」と依頼に対して前置きしていた。「当事者ではない」ということはとても肝要なことで、つまり自分はその問題について身につまされる苦悩はしてないし、深刻に考えたりもしてないということだ。
しかし、そんなちっぽけな良心など関係なく、取材や企画や原稿依頼は続いていく。傍目には僕はゲイで、ゲイのスポークスマンみたいな位置にいたと思う。まぁ、書いた小説が書いた小説だから、しょうがないわな(笑)