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泥棒日記(ジャン・ジュネ)

ジャン・ジュネは、これしか読んでない。
ほかのはすべて中途挫折。
アーヴィングみたいにすらすら読めない。
荘厳なジュネの宮殿。

『YES』を書く前に、同性愛関係のものは、
一通り、読んだし、観た。
ジュネは、避けては通れない道。
感想文が残っている。
日付は1983.12.13。

 いま、読み終わった後、何故だか、滑稽な印象を拭えない。
 作者の強靭な到達への意志、
 絶対的な孤独への渇望、
 そしてそれらを包含する、自己の生の追求、正当化。
 まったく偏執的といっていいほどの美への情念。
 そして、自己の完成・・・・・・
 とても敬服してもしきれないほど、彼の強烈で唯一の生は、
 称賛を僕に余儀なくさせるし、僕を恥ずかしい気持ちにさせる。
 しかし、何故だか、僕は人間の、また芸術の喜劇を感じてもしまうのだ。

 結局は、この小説は、外側の何物も動かせないだろう、
 芸術のための芸術。
 作者もそれは知っていたと思われる。
 要するに、無関心な人間には、何一つ、
 このような芸術は理解されないのだ(これに限らないが)。
 それなら、作者の目的は何であったのか?
 それは言うまでもなく、自己の実存、
 唯一無二の自分を、不動の存在として、この世に屹立させること。
 つまり、自己解放であり、自己救済であり、
 自己を一つの哲学(聖性)として完成させることにあったのだ。
 作品としてではなく、自己の生命がそれであろうとしたのだ。
 理解までには及ばなくても、人を説得させるのに、
 それは充分過ぎるほどの絶対的な力を獲得する。
 一人の人間自身が意見であり、主張であるのだ。
 彼は自分という生を理解されないまでも、
 異端に、怪物になることで、
 有無を言わさず、自分をこの世界にモニュメントしようとしたのだ。
 彼の存在は強くなければならなかった。
 完全な悪、恥でなければならなかった。
 そのために、彼は自分の内部に巣喰う善と人が呼ぶものを、
 超人的な苦痛を引き受けながら、
 一つ一つ意識的に排除していったのだ!

 人間とは本質的に悪ではないのか?
 多くの人間はそんなことは考える必要もなく生きていく。
 しかし、自分を、その生の本質を疑い始めた者は、
 真実の自分に忠実であろうとした者は、
 つまり、自分というものを知悉しようとした者は、
 あくまでも自分自身を突きとめようとする。
 そして、不純な複合物としてではなく、
 純粋な結晶体となり、
 人間を、この世界を、その光で照らしてみようと試みるのだ。

 完全な善などはない。
 彼は完全な悪(これは罰を受けるものだ)に自らを染めあげて、
 負の最底辺に堕ちることにより、
 逆説的に、正の頂点(善)に昇ろうとしたのではないか?
 善も悪もない、超越したどこか・・・・・・
 彼は、新しい真の人間を創造しようとしたのか。

 僕のような弱小者には、
 彼を敬意以外の何ものでも飾れないし、
 また、彼の創造について、真に理解できるはずもない。
 いま現在、語れるのは、
 感性に寄りかかった曖昧としたことだけである。
 すこし期間を置いて、また読み直してみたいと思う。

              (了)

う~ん、完全に圧倒されてますね。
この世界には、圧倒的な文学の系譜、というものがあって、
僕の中では、
ランボー、ジュネ、セリーヌ、セルビーjr・・・・・
日本だと、三島由紀夫、太宰治も入るかな。
怪物ですね。凡俗じゃない。
作者自体が、文学であったような人たち。


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