比留間久夫 HP

Home > ブログ > エッセイ、寄稿など

『YES YES YES』のあとがきにかえて


 人間っていうのはとても忘れやすい動物だと思う。何故なら、僕は今現在、『YES YES YES』を書いていた数年間のことを、つまり小説を書こうと思いだしてからの、たぶんそれなりに苦しかっただろうその6年間の心境を、はっきりと思い出せない。
 「受賞の知らせを受けたとき、嬉しかったですか?」人はそう聞く。もちろん、嬉しくなかったといえば嘘だ。でも僕は受話器を置いたとき、もう次の作品、これからのことをきっと考えていた。そしてそのとき、たぶんそれまでのことはさっぱり忘れてしまった。
 この前テレビを観ていたら、デスクの下に段ボール箱を置いて、その中に一円玉を山のように積み上げている、ある成功した青年実業家が映っていた。彼はインタビュアーの質問に答えて、それは自分が一円玉にまで執着し、苦労した昔のことを忘れないためだと話していた。僕は彼の気持ちがわかるような気がした。彼もきっと思い出せないんだなと思った。むろんそれは幸福な今がある上での贅沢な悩みだと思う。今が幸福でなければ、苦しかったときのことなどに誰も愛着は持てやしない。きっと人間の脳の許容できる情報量は決まっている。それまでのことを忘れたくなくても、これからの膨らむ思いが、それらを頭から追い出してしまうのだろう。もちろん全て忘れるわけじゃない。それはあるとき、不意に思い出されたりもする。けれどそれはきっと思い出そうとして、思い出せるものではないと、僕は思う。
 「なぜ、小説を書こうと思ったんですか?」これもよくされる質問。僕がすこし考えていると「それは音楽と同じ自己表現ってことですか?」と聞かれる。いや、と僕は首を振る。「いや、ほかにしたいことが何もなかったから」僕は素直にそう答える。そしてそんなとき、僕はちょっと昔のことを思い出す。机の前に座り、こんなことをうだうだ書いて今というときをーーなぜなら小説は全て過去のことだーー無駄にしてるより、女の子と遊んだり、何か未知のことに向かって動いてるほうがよっぽど素敵なことなんじゃないか? と思っていたときのこと。つまり小説なんかを書いているより、自分が小説のように生きることのほうがよっぽど誇らしいことなんじゃないかと自分を恥じていたときのこと。
 僕には小説家に対し、変なイメージがある。それはもしこういう表現媒体がなければ、自分の生を達成できない、自分は生きることができないといった否定的な嫌悪すべきイメージだ。僕は自分の満たされない思いや、希望や、理想や、生を小説の中で実現したいとは思わない。いやそれはもしかしたら無意識の内にはあるのかもしれないが、僕は気持ちの上ではあえてそれを否定したい。僕はそれよりも先ずこの現実を楽しく気持ちよく幸福に生きたい。そしてたぶん僕の弱さからくるものだろう、僕はそれらの後に意味や根拠を欲しがり、それを確認する作業を、つまり考えるってことをいつまでも馬鹿みたいにやめようとしない。
 僕は小説を書いている間、何度もその作業を中断した。それは主に文章の稚拙、小説を書く技術的な未熟に負うところが大きかったのだが、それよりもきっと「自分は何故こんなものを書いてるんだろう?」という思いに日々何度も捕らわれたせいだと思う。いったい今更、僕に何か書くことなんてあるのだろうか、こんなに多くの本、著作物が出版されている現在、そしてきっと人間の頭でわかることは全て語り尽くされていると思われる現在、そしてきっと何もわからないってことが唯一の人間の真理であると思われる今、いったい僕が自分のその小さな世界をぐちゃぐちゃと書くことにどんな意味があるというのだろう。
 そしてそれは正直なところ、今もわからない。ただ僕はきっと2年前ぐらいだったと思うが、一応、その思いを克服した。それはきっと自分の限界、資質を自分なりに認めたことだと思う。僕はオールオアナッシング、全てかゼロか、という生き方が昔から好きだ。そして僕は自分が何かをやるなら、僕は全てにならなければ、また全てを目指さなければ、嘘だと、それは何の意味もなさないとずっと自分を責め立ててきた。そしてその全てとそうなることを怖れる卑小な自分とのギャップに僕は日々惨めに打ちのめされていたんだと思う。けれど僕はその2年前のある日、自分に今、書けることだけを書こうとあきらめた。今の僕にきっと僕の望む全ては語れないだろう。でも今の僕なりの精一杯を書くしかないじゃないか、・・・だってそれらを整理しなければ僕は今、一歩も前に進めないんだから。むろんだからといって僕に全てを語りたいという欲望が失せたわけではない。だってそう言い切ってしまったら、高い金を出して僕の本を読んでくれる人たちに失礼だし、僕の書いてるものにどんなつまらない意味もなくなってしまうだろうから。
 僕は自分が数多くの音楽、小説、絵画、映画、・・・そしてそれらは元をただせば人間ということになるのだがーー、それらから受けてきた贈り物を、つまりそれらは励ましだったり、慰安だったり、感動だったり、・・・生を肯定する、もしくは肯定しようと思う願いや祈りだったわけだが、それらを自分も人にあげられたらいいなと思う。僕が恋人に誕生日にプレゼントを渡すように、それがその人をひとときでも楽しい幸福な思いにできたらいいなと思う。そしてそれが今の僕に考えうる限りの僕の作品の全意義、全価値だ。しかしそれはあくまでも自分の作品を世界の中で意味付けするなら、の話であって、僕がなぜ書いているかということとは本質的に何の関係もない。きっと書くということは表現するという行為と同時に、自分を知りたいという熱烈なる欲求なのだと思う。それは自己言及、自己確認、自己糾弾の果てしない旅と言ってもいい。だから僕の作品は全て僕の生育の記録だ。そしてそれは僕の思いを読んでくれた人たちの言葉をも反映し、--つまり自分を外側から見ることもでき、僕は自分をより深く多角的に知悉できる機会に恵まれるだろう。そして自分を知るということは同時に世界をも知るということだと思う。はたして僕にどれだけ自分のことが知れるかどうかはわからないが、僕のその姿勢次第で、世界もその不可解で神秘的なベールを1枚1枚脱いでいってくれるに違いない。
 最後にこの場を借りて、僕の小説を読んでくれた人、これから読んでくれる人たちにありがとうと言いたい。


        『新刊ニュース』1990.3月号


 ・・・長いあとがきだなぁ(笑)
 これは小説家になって、はじめて書いた原稿です。『新刊ニュース』という業界紙にデビュー作について何か紹介文のようなものを書いてくれと依頼され、なら単行本にあとがきを書かなかったので(書く気もなかったけど)、ここに書いておこうと思いました。
 あのころ、誰か作家さんに「比留間久夫の文章はだらだらとミミズが這っていくように途切れずに続いていく」みたいなことを言われましたが、まさにその真骨頂ですね。「そして、つまり、しかし、けれど」などがいっぱい出てくる(笑)
 読み返して、「何を書いてんだか」ってツッコミを入れたくなるところもありますが、まぁ、気負いと環境激変と個人的に引き摺る思いの中で、正直なところを残しておこうと思ったのでしょう。自分で言うのもなんですが、好感が持てます(笑)

PAGE TOP